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長野県長野市大町~穂保~
津野~赤沼
  これまでに私たちは今も長沼にある14の寺院と1つの地蔵堂、そして7つの神社を探訪しました。かつてはこのほかに20近くの寺院や神社があったといわれています。
  ここでは、それらの記録を発掘し、かつてあった場所を探してみることにします。
  巻頭の写真は、宗栄寺の跡に残っている三界万霊塔と史跡を示す標柱。背景右端近くに長沼城跡のケヤキの大木が見える。


▲津野にある忠恩寺跡地: 一対の石仏が向かい合っている草原。左奥には石仏群・石塔群がある。

 


▲忠恩寺跡(グーグルマップ)


草地の北西端に石仏や石塔が

▲善道寺の大きな堂宇群は周囲を鎮護するような存在感だ

▲正覚寺の南側の墓地・石塔群は原立寺の跡だという

▲明治30年の移転のさいに長沼に残された墓石群

▲正覚寺の駐車場前から太子堂や庫裏を眺める: まだ水害の跡が生々しい

▲蓮生寺跡(赤沼分家館跡)に立つ墓石・石塔群

▲今、跡地には(左から)延命地蔵堂、土蔵、集会所がある


■津野の忠恩寺跡■

  玅笑寺から西に向かう小路と正覚寺の東側の小路が交わるところの北側に忠恩寺跡があります。今は草原となっていて、草地の北西橋には一群の石塔や石仏が集められています。
  今は石仏群のほかにはさしたるものもない草地ですが、明治の終わりごろまでここに西光山忠恩寺という寺院がありました。浄土宗鎮西派で、知恩院の末寺だったとか。
  室町時代の末(戦国時代)、1528年(享禄年間)に長沼の領主、島津淡路守規久が建立したと伝えられています。やがて1601年(慶長年間)、徳川家の命で長沼城主関長門守が飯山(4万石)に移封となったときに、忠恩寺を分寺する形で飯山に移設しました。飯山の忠恩寺は、飯山藩で最も有力なな寺院――藩主家菩提寺――となり、今でも残っています。
  長沼に残った本来の忠恩寺は歴史がある古い寺でした。ところが明治末期、無住となり、寺の文物を善道寺に引き渡して廃寺となったそうです。
  草原の北東隅には、おそらく阿弥陀如来だと思われる座像が置かれています。
  ありし日の忠恩寺の境内は、現在の草地よりもずっと広く、その南西側の住宅の敷地と東隣の畑地におよんでいて、草地の3倍ほどはあったと思われます。

■原立寺跡の墓地■

  長沼津野の正覚寺の南側に小さな墓地があります。これが日蓮宗の栄久山原立寺の跡です。山梨の身延山久遠寺の末寺ということです。原立寺の墓地とも呼ばれているようですが、今ではここに原立寺はありません。
  創建は1534年(天文年間)で、武田信玄の家臣の原美濃守が仏門に入ってのことですが、開山の祖は日隠上人だとか。はじめは、豊野の石村にあって、寺号は弘法寺で真言宗だったそうです。宗旨を変えた時期や長沼に移った時期はわかりません。【⇒関連記事】
  長沼藩佐久間家の家臣、岩間家が境内地を寄進したという史料があるので、寺は1616年以降(長沼藩成立後)に長沼に来たものと考えられます。
  1897年(明治30年)に長野市城山に移転しましたが、その後公園整備のため、妻科に移設されたそうです。

■六地蔵町の宗栄寺跡■

  六地蔵町の農産社の北が側から西に向かう小径の中ほどの畑作地だったところに三界万霊塔があって、その脇に「宗栄寺跡」という標柱が立っています。
  室町時代には地蔵院と呼ばれる寺院が別の場所にあったのですが、16世紀半ば(天文年間)に兵火を浴びて荒廃し無住になっていたそうです。この寺院が宗栄寺跡地に移されたのは、1736年(元文元年)で、玅笑寺の16世禅師、寂龍の時代に再興し、寺号を宗栄寺と改めて修行僧の奕傳を住持としたと伝えられているとか。
  しかしやがて、宗栄寺は西長野の往生寺狐池の近くに移って尼寺となりました。この宗栄寺は今でもその地に存在しています。

■赤沼の蓮生寺跡■

  赤沼分家館跡地には1701年(元禄年間)、浄土宗鎮西派の蓮生寺が建立されました。栗田町の善導寺の僧、玄鉄が開基したそうです。
  その後200年ほど続いたのですが、明治時代に後継者が絶えて無住となっていたところに長沼地震でいよいよ荒廃したため、破却されたということです。
  この場所には今では、赤沼上組の集会所と延命地蔵堂、土蔵が置かれています。ここは、江戸前期に佐久間家の赤沼分家の屋敷があったのですが、さらに数世紀前には長沼の地頭領主島津家も分家館を置いていたそうです。
  してみれば、島津家分家屋敷、佐久間家分家屋敷、蓮生寺とこの場所にあったものが相次いで消え去ったということで、ここに立つと歴史の流れの無常さを感じずにはおれません。草地となっている敷地の南北の端にはそれぞれ一群の古い墓石や石塔・石仏が残されていて、それが寂寥感を誘います。

■真浄寺跡■

  延命地蔵堂から赤沼西小路を50メートルほど西に進んだところの道の北脇、2軒の住宅の境界に古びた石塔がひとつだけ立っています。凹凸の目立つ石塔には「波阿弥陀仏」と刻まれています。この辺りには、今から460年ほど前に実源山真浄寺という浄土真宗の寺院がありました。
  真浄寺の創建は1212年(建暦年間)。開基は、明慶という浄土真宗の僧だとか。明慶は、もとは土屋五郎重行という常陸国の武士で、源平合戦に加わって平教盛の子、業盛を打ち取ったが、やがて妻を失い世の無常を感じて仏門に入ったのだそうです。越後の頚城郡で修行した後、親鸞に出会って門徒の僧になりました。そして、親鸞の回国に随行し、その途次、長沼にとどまって真浄寺を建立したといいます。
  16世紀の後半、おそらくは上杉と武田の戦乱を避けるために、現新潟市西堀に移転して、現在もそこにあるそうです。
  以下には、記録が判然としない寺院について報告します。

■東照寺■

  東照寺は、現在、林光院の駐車場となっている辺りにあったそうです。浄土真宗の寺院であって、しかも西厳寺の隣にあったということから、西厳寺の支院・塔頭だったのかもしれません。
    ところが、やがて千曲川の対岸にある相ノ島に移転したものの水害にあったため、さらに須坂市米子に遷移しました。東照寺は現在もそこにあります。
  しかし、いつ頃に創建されて、いつ頃に移転したのかについては不明です。かつてそういう寺があったという言い伝えが残っているだけです。

■蓮正寺■

  かつて赤沼の西小路の奥に長沼山蓮正寺という浄土真宗の寺院があったという記録が残っています。もともとこの寺は須坂の(臥竜山の北東にある)普願寺の末寺でしたが、1540~70年代に長沼に移って教心という僧による開基で再建されたと見られています。
  その時期には、武田家の北信濃侵攻があって、戦乱兵火が続いて長沼では多くの寺が焼失したとか。また蓮正寺は、織田信長に敵対する石山本願寺をかなり積極的に支援したようなので、武田家滅亡後に織田家の直轄地となった長沼にはいられなくなったのかもしれません。まもなく蓮正寺は越後寺泊に移転し、さらに与板町に移転し、そのまま現在にいたっているようです。
  しかし、いつ頃に創建されて、いつ頃に移転したのかについては不明です。かつてそういう寺があったという言い伝えが残っているだけです。

■津野十王堂■

  津野公会堂のある場所に明治末まであった、十王像を祀る尼寺だそうです。玅笑寺に付属する支院で、白沢家が開創し、家門の女性が尼僧となっていたようです。
  小川村にあった十王像を長沼津野に運んで小堂に安置して本尊としたのだとか。

■法珠院■

  西界山法珠院という寺院があったという記録があるようですが、宗旨や寺の歴史はまったく不明です。長沼藩廃絶の後にこの寺院の跡地に霊山寺が移転してきたということなので、西厳時の北側にあったものと見られます。

■霊山寺■

  もともとは信濃町大井に真言宗の霊仙寺りょうせんじがあったそうです。修験霊場で、鎌倉時代には七堂伽藍を備えた大寺院で、支院・末寺が30房もあったといいます。
  上杉家の庇護を受けていたようですが、戦火のため堂宇は焼失し、その後再建され、佐久間藩消滅後に長沼の法珠院跡に移転し、霊山寺りょうせんじと寺号を改めたようです。ところが、1741~43年(寛保年間)にかけて2度の大水害で流失して寺は失われたそうです。
【⇒関連記事】

■赤沼十王堂■

  その昔、赤沼の「一ノ配」という場所に十王堂があったそうです。阿弥陀如来像がと十王像が置かれていましたが、阿弥陀如来像は芝増上寺内の清光寺を開基した高僧、潮瑞が寄進したものだとか。
  時期は不明ですが、十王堂が廃されるときに阿弥陀如来像は観海寺に移され、十王像は蓮生寺に安置されることになったそうです。蓮生寺の十王像が今はどこにあるかは不明です。

■山王権現と白山神社■

  長沼には山王権現がひとつと白山社がふたつあったそうですが、洪水によって跡地の遺構が失われてしまいました。山王権現は、長沼城三ノ丸跡守田神社の境内にあったものと思われます。

■長仙寺■

  1276年、親鸞の弟子で貞信という僧が現飯綱町の赤塩に長仙寺を開基建立しましたが、1368年に長沼に移ってきたと伝えられています。その後250年以上も続いたのですが、1619年に隣村の布野に移り、さらに1698年、現長野市の南堀に移転したそうです。そのまま今に続いています。
  長沼のどこにあったかは不明です。ただし、長沼住民自治協議会、長沼歴史研究会が発行した『歴史薫るまち長沼 史跡巡りマップ』によると、赤沼の大田神社と街道を挟んで斜向かいにあったと示してあります。すると、下記の智足院と境内を並べていたかもしれません。
  私が探索したさいの印象では、大田神社社務所から赤沼中央公園辺りまでは、わずかに石仏や石塔が残されていて、寺町としていくつか寺院が集まっていたのではないかと推察しました。

■浄興寺■

  1217年、親鸞は常陸の国笠間郡稲田に一宇を立てて稲田禅坊と称しましたが、やがて浄土真宗を開くと、浄土真宗興行寺を略して浄興寺という寺号に改めたのだとか。ところが、戦火にあって堂宇は焼失し、葛飾郡に移ったそうです。
  1267年(文永年間)に土地の寄進を受けて長沼津野村、正覚寺の前に遷移しました。しかし1561年(永禄年間)、武田家の北信侵攻と合戦によって兵火を浴び、寺院は灰燼に帰してしまいました。5年後、上杉謙信の招きによって春日山城下に寺領を与えられ、移転しました。
  その後、寺は直江津に移り、さらに高田城下に移転し、現在もそこにあるといいます。

■経善寺■

  開創の年代は不明ですが、真言宗古義派の寺院で、長沼城跡から松代道に往く小径とおんま通りとの交点の西寄りにあったそうです。
  1968年に廃寺になり、住持の家族は真言宗の伝統にある医療に関する深い知識を活かして医者になったとか。となったとか。長沼では廃仏毀釈運動はなかったようですが、住持の一家は明治政府の意向に遠慮したのかもしれません。

■智足院■


大田神社の西70mにある石塔・石仏は智足院跡か▲

  赤沼の大田神社の西方に智足院という曹洞宗の尼寺があったそうです。浅慶院の修行僧、宣法が開基したと伝えられています。
  後継者がなく、1873年に廃されたとか。

■千手院■

  大町の大欅記念碑の東――昔、ケヤキの大木があって渡し場の目印だった――に晴信山千手院というお堂があったそうです。山号が示すように、武田信玄が建立した寺で、十一面千手観音像を本尊としていたそうです。
  後継者がなく、1873年に廃されたとか。

■赤沼十王堂■

  その昔、赤沼の「一ノ配」という場所に十王堂があったそうです。阿弥陀如来像がと十王像が置かれていましたが、阿弥陀如来像は芝増上寺内の清光寺を開基した高僧、潮瑞が寄進したものだとか。
  時期は不明ですが、十王堂が廃されるときに阿弥陀如来像は観海寺に移され、十王像は蓮生寺に安置されることになったそうです。

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