◆《しなの長沼・お屋敷保存会》の試み◆


▲古民家 米澤邸: 左から、土台を嵩上げした土蔵と主屋(茅葺き屋根に金属板を葺いてある)、そして右端が長屋門倉庫兼作業場。
 屋敷の前景は、洪水前は果樹園や菜園だった。氾濫後に更地になってしまったが、今は草地。春には菜の花が咲く。

  先年の千曲川氾濫で長沼の古民家――すでに劣化や荒廃が進んでいた――の大半が失われてしまいました。修復可能なものの多くあったのですが、悲惨な水害直後の住民は行政側から「公費解体」へと誘導され、文化財ともいえる古民家は古木材を保存することもなく解体撤去されたのです。
  それは、必ずしも地元の要望に沿ったものではなく、大災害に茫然自失していた住民の窮境・混乱のうちに「上から推し進められ、促されたた」動きでした。そして、文化財としての古民家を所有者個人の力で維持する難しさが、水害で明らかになったともいえます。
  ところが今、住民たちは古民家の再生(修復と利用活用)に向けて自ら動き始めたようです。その動きを一瞥しながら、長沼の古民家の現状の一端を報告します。
  「しなの長沼・お屋敷保存会」は先頃、古民家米澤邸の再生を手始めに、以下のようなコンセプトとお誘いをもって活動を始めました。

  被災古民家に新たな息吹を
  被災地長沼の古民家を壊すのではなく、みんなの力で修復して利活用します。どのように修復するか、またどんな活用ができそうか、地域のコミュニテイー再生のために、どんなイベントができそうか、アイデアを出し合いたいと思います。   どなたも参加できます。地区外の方も歓迎です。
  ワークショップで修復再建した長屋門も見学いただけます。ぜひ気軽にお出かけください。

  下の写真が示すように、古民家再生プロジェクトの少し前には、復興をめざすグループによって、草地となっていた穂保の畑地にリンゴの苗(幼木)が植えられました。やがて、美しい果樹園風景が復活するはずです。


▲米澤邸の南側の穂保(旧内町)の街並みと田園: 洪水で果樹園が失われて草地になっていたが、果樹園が復活しつつある。


▲果樹園復活に向けて新しいリンゴの苗(幼木)が植えられた畑


▲土蔵などの倉庫群に取り巻かれた主屋


▲石垣で補強した盛り土で基礎を1メートル以上嵩上げした土蔵


▲画面右端が米澤邸の長屋門の蔵


▲米澤邸の裏手の眺め: 土蔵蔵や別棟が主屋を背後から囲んでいる


▲裏手の土蔵は2メートル近く基礎を嵩上げしてある


▲主屋・土蔵の西側からの眺め


▲屋敷の敷地そのものが裏手の田畑地よりも1メートル高くなっている


  そのため、穀物や家財などを水害から守るために、基礎を1.5〜2メートルほど嵩上げして石垣を施してその上に土蔵を検察するようになりました。  すると、すでに侍屋敷地が周囲の田畑や町人地よりも1メートル以上高い土地の上にあるところに、さらに主屋の基礎よりも1.5〜2メートル嵩上げした土台の上に土蔵を構えたのです。

◆古民家再生への道◆

  古民家の維持には、ただでさえ、かなりの費用がかかります。また解体にもそれなりに費用がかかります。古民家は社会的な価値をもつ文化財ですから、よほどの資産家や法人組織でないと、単なる私有財産として個人だけの負担で維持し続けたり修復することには大きな限界があります。このに長沼の洪水災害の後のような状況では。



  長屋門を備えた蔵(倉庫兼作業場)は修復された

  この特集記事では、長沼で始まったばかりの古民家米澤邸の再生への道を報告します。
  この古民家の所有者、米澤氏も災害直後には苦悩され、迷われたと思います。しかし結局、私有財産でもあるこの屋敷を、長沼の復興と古民家保存・活用をめざすグループとの協力のなかで、文化財・公共財として役立て、そうすることで人びとの暮らし、人びとの交流とともにある家屋として再生させようと意思決定されたようです。そこには、屋敷への深い愛着があるように感じます。

◆長沼の古民家屋敷の特質◆

  米澤邸は、長沼藩時代、城直下の「侍屋敷」とよばれる武家屋敷街の北西端(堀端)に位置していました。廃藩後には、旧長沼藩士(武士)の多くは長沼の地に残り帰農したと見られます。そういう人びとは武士時代に身に着けた識字・算勘能力を活用して、やや高い次元で農耕や農業経営をおこなったでしょう。
  長沼邸が基本的に武家時代の屋敷の規模を維持して幕末を迎え、それ以前からの建築様式――ほかの地域なら豪農クラスの屋敷の格式――を保っていたことが、ほかの地域の一般の農民たちよりも高い次元で農業経営に取り組んできたことの証明でもあります。もちろん、米澤氏をはじめ長沼の住民は「それが当たり前」と意識しているので、これだけの規模の屋敷を保持することが特別のこととは思ってもいないのですが。
  さて、米澤邸は長沼城の城郭としての縄張りの北西端の堀の畔にあったので、その外側は農地または一般町人地となっていました。城郭内の土地は石垣で補強された土塁で囲まれ、盛り土で嵩上げされていました。
  廃藩後に帰農してから、半世紀ほど過ぎた時期(1730年頃)から、裾花川や浅川などの千曲川支流の流路の変更小路によって、千曲川の流路は西寄りになって氾濫洪水が頻繁に発生するようになったと見られます。


主屋前の庭から眺める土蔵

■催事や交流の拠点としての活用へ■

  米澤邸をどのような場として再生し活用していくのか、多様な可能性(選択肢)が広がっています。カフェを備えた長沼住民たちの集まる場、文化的行事の場、外からやってくる観光客やヴォランティアと交流し地元の案内役が情報提供する場などなど・・・。
  とりあえずは、地元民とヴォランティアがともに古民家の修復や改装、さらには利用のアイディアを出し合ったり、自ら手がけたりする場となるでしょう。試行錯誤して、ここにふさわしく長続きする場にしていけばいいと思います。
  長沼でのこの動きに関心のある方は、Facebookに会員(アカウント)登録して「しなの長沼・お屋敷保存会」で検索してください。Facebookは会員制のネットメディアなので、このページからリンクすることはできません。

屋敷地内の家屋の配置モデル

  上掲図のように、屋敷地内で主屋は土蔵や作業場兼蔵などに取り囲まれていた。そして、表通り側の蔵の棟は長く(長屋状)、屋根の下には長屋門が設えられていた。


赤沼の天利邸の一角にできたパン工房「ホッペパン」▲

  赤沼の天利さん宅の一隅――といっても敷地の中央部――には、テンポラリーに開店するパン工房「ホッペパン」が誕生しました。
  天利邸は赤沼の「一の配」という場所にあります。主屋は、この地区では典型的な、きわめて広壮で重厚な造りの和風住宅で、その南側にはみごとな和風庭園があります。主屋の周りを土蔵や作業場を兼ねた倉庫などが取り囲んだ、かなりの規模の御屋敷です。
  天利さんはしなの長沼・お屋敷保存会の代表で、今後ここにカフェを備えた、住民や来訪者たちが交流する場をつくろうと計画しています。

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