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長野県東御市本海野
  北国街道海野宿には江戸時代から明治期・大正期・昭和期までの各時代の古民家が保存されています。街並みの原型は江戸時代中頃に形成され、明治期には養蚕業の発展にともなって台頭富裕化した商家が軒を連ねる街並みになったようです。
  街道中ほどに用水路が流れる街並みは江戸時代の街道の面影を残す貴重な遺構=文化財です、
  写真は、江戸時代の古民家と明治期以降の商家が隣接する風景。
街道の歴史と地理

  江戸時代のはじめ、北国街道のなかで海野は東隣りの宿駅、田中を補助・補完する集落で、間の宿――相の宿または合の宿――として位置づけられていました。ところが18世紀の半ば、千曲川支流の大氾濫水害で田中宿が壊滅的な被害を被ったため、宿駅の機能が海野に移され、ついには本陣も移設され、本格的な宿場街になりました。
  中世には豪族海野氏の本拠地であったこの街は、もともと物流や交易の拠点として成長していたようです。真田家が上田藩主となったときに海野の有力住民を上田城下に移して都市集落のひとつを建設し、海野町と名づけたことから、本来の海野郷は「本海野」と呼ばれるようになりました。
  往時は街並みはすべからく茅葺屋根家屋からなっていました。瓦葺きで厨子二階造り――二階部分の高さがかなり小さい造り――の商家の町家が並ぶのは、明治時代中期からのことです。


▲海野宿では街道中ほどにあった宿場用水が保存されている。右側(北側)は古くからの街路で、これを北国街道にして、その南側(左側)に拡幅して用水路と前庭をともなう補助路としたようだ。

▲用水路が石垣で護岸されるようになったのは、明治以降と見られる


▲多様な「うだつ」が並ぶ家並み

  海野宿を貫く街道の中ほどには今でも宿場用水が流れています――ただし、街道の北側は明治以降に拡幅され、現在では用水路は道路の中央よりも南寄りになっています。
  江戸時代には街道路面は波を打つように起伏に富んでいて、用水路も石垣で護岸されることもなかったようです。人や人力による荷車が通る程度では路面や用水路が傷むことがなかったからです。
  江戸時代の街道は平野部では、宿場内の街道の中央部に宿場用水が配置されていましたが、海野宿はそういう古い遺構を今でも保存している貴重な存在です。⇒江戸時代の海野宿の姿(絵図)

■海野宿の街並み ―白鳥神社から西桝形跡まで―■


▲門の奥に媒(なかだち)地蔵尊がある

▲伝統的な和風に改修した家屋

  私は2019年10月末から11月半ばにかけて東御市にある北国街道海野宿を訪れて取材しました。その半月ほど前、台風19号の豪雨で千曲川が大増水して、海野宿の東端の河川敷とアクセス道路、橋を破壊してしまいました。しかし、さいわい街並みには被害がなく、古民家が軒を連ねる美しい景観を眺めることができました。
  海野宿は千曲川右岸の河岸段丘上にあります。その街並みを、南東端から歩いて街並みを眺めることにします。
  北国街道は、街道制度では最上級と位置づけられた中山道と北陸道とを結ぶ道で、古くは北国往還と呼ばれていました。この道は中山道や東海道よりも格付けは下でしたが、北越方面の大名たち(加賀藩主など)が参覲で旅行する幹線であるとともに、佐渡産の金を江戸に運ぶ道でもあって、交通の要衝でした。
  北国街道は、小諸から長野の善光寺まで千曲川沿いをたどる街道で、江戸時代のはじめに幕府の命を受けて上田藩真田家が、善光寺平の入り口(千曲市屋代)まで道路を開削整備し、いくつもの宿場街を建設しました。東信濃から善光寺に詣でる道ということで、善光寺街道(善光寺道)とも呼ばれます。


▲白鳥神社方面を振り返る

◆補完的な間の宿から宿駅へ◆

  17世紀はじめ、真田家は北国街道の宿駅として田中という街集落――海野から1キロメートルほど東にある――を建設しました。近隣の村落から住民を集めて商業上の特権などを与えて庇護し、田中の宿場街としての成長を促しました。
  ところが、1742年(寛保年間)の大洪水――烏帽子岳山麓からの鉄砲水――によって田中はあらかた壊滅状態に陥り、宿駅の機能を失ってしまいました。
  おりしも東信の交通の要衝であった街道沿いでは、この地の豪族海野氏の城下町であった海野集落が成長し、街道の伝馬役として田中宿を補助するを担うようになっていました。運の集落には問屋場が置かれ、田中と半月交替で旅貨客の継立てをおこなっていました。
  そこで、1740年代から海野集落が田中に代わって本格的に街道の宿駅としての役割を担うようになったのです。海野は間の宿から本宿に格上げされたのです。
  というわけで、豪族海野氏の城下町としていわば自然成長した海野郷は、宿駅に格上げされるのにともなって、主要街路が街道となったために、街の姿が改造されたはずです。私の想像ですが、街道の北側の家並みは改変が難しかったので、旧道の南端に宿場用水を開削し、さらにその南側に道を拡幅して、そこに各戸ごとに前庭植栽づくりを義務づけたようです。用水の両岸には松やカエデの並木をあしらったようです。


▲左の幅広の方が街道本道だったらしい

◆作事小路から西桝形跡まで◆

⇒参考絵地図
  千曲川沿いの市営駐車場から北に向かって海野宿にいたる小径が作場小路です。作場とは耕作地とか農作業場という意味なので、田畑に向かう道つまり農道です。ここから街道を西に向かうと十字路に出会いますが、南に往くのが中島小路で、北に向かうのが洗馬道です。そこからさらに宿場の外れ、西桝形跡までは100メートルあまりあります。
  宿場の東端から始まる用水路脇の並木と植栽は桝形跡まで続いています。

  宿場の東端――白鳥神社前の東桝形――から西桝形まではおよそ650メートルの長さで、これが宿駅としての海野宿の街並みです。このあ宿場街が、江戸時代には「上宿」「中宿」「下宿」というように3つの街区に分けられていたそうです。
  ところが今では、海野集落の街並みは、街道に沿って西桝形からさらに西に500メートルほども延びています。おそらく、江戸時代から街道沿いの商工業と物流の発達とともに拡延した街並みなのだろうと思われます。
  そして、近年、この街並みも海野宿と調和するような和風の街並み整備や修復がおこなわれてきたので、なかなかに落ち着いた雰囲気の美し街並み景観を形成しています。西桝形跡から西の街並み景観については、次のページで特集しますので、ぜひ、街歩きを楽しんでみてください。

◆街並み景観スポット その1◆


▲御蔵小路の中ほどで街道を振り返る

▲御蔵小路を進むと、畑作地に出る

  古い宿場の街歩きの楽しみのひとつは、狭い小路に迷い込んで探検することです。上の写真は、「まるや」という屋号の古民家――今は古本カフェになっている――の東脇から北に延びる細道で、御蔵小路と呼ばれています。腰板漆喰壁の土蔵のあいだを進む道で、道の先には畑作地が広がっています。
  その小径は、河岸段丘をのぼっていき、中世にこの地を統治した豪族、海野氏の居館(砦)の跡にいたります。
  右側の組写真は、中島小路の景観です。街道から用水路に沿って南に向かう道で、たぶん、千曲川の中洲に行き着くので、中島小路と呼ばれたのでしょう。用水路は湯ノ丸高原から流れ下る金原川から取水され、白鳥神社の脇を回り込んで街道に導かれ、中島小路に沿って南に曲がって流れ下り、千曲川に落ちます。


▲作場小路の出口付近の双体道祖神

  さて、宿場の案内板の西脇から南に往く小径が作場小路です。小路に入ってすぐ右手には、火山岩の上に安置された双体道祖神があります。この小路を南に歩くと、千曲川河畔の田畑に囲まれた市営駐車場に行き着きます。


海野宿の東端の様子:右側が白鳥神社で左側は土産品店。

街道に面して江戸時代、明治期、大正期、昭和期、各時代の古民家が並ぶ

晩秋の頃は、街路樹の葉が減って家並みが見やすくなる

左側の古民家は修復工事中

明治期から昭和期の建築物群

うだつが家並みに律動を与える

白壁古民家は昭和期の建築物

和風古民家が並ぶ街並みは落ち着いた美しさをもたらす

本陣跡前から白鳥神社方面を眺める

作事小路の入り口から東方の眺め。高札風の案内板が立つ。

高札の先を左折すると作事小路

中島小路と洗馬道が出会う辻から西(西桝形跡方面)の景観

土壁土蔵沿いの中島小路。宿場用水はここで左折して南流する(西川と呼ばれる)。

中島小路の様子

用水路脇の植栽は西桝形跡の手前まで続いている

この鍵の手クランク手前が西桝形跡

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