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▲堤防下の桜やハルニレの並木越しに西厳寺さいごんじの境内を眺める:蓮如堂の奥に本堂の大きな屋根が見える

■下総磯野郡から移ってきた古刹■


▲桜が咲き始めた土手際から蓮如堂を眺める

▲太鼓堂前から延びる石畳の参道

  旧街道上町通りの北端で鉤の手になっていて、右折と左折を繰り返して栗田町通りに出ます。城郭なら大きな桝形と言えるほどの屈曲です。この鉤の手辻の東側は寺町となっています。
  この一角には現在、寺院が5つあります。成田山西厳寺は、この一群の寺院の中心をなしています。というのも、その周囲の寺院は、もともとは西厳寺に付属する塔頭・支院だったからです。
  明治より前には、広大な寺領と境内、数多くの塔頭・支院を擁していましたが、維新革命によって現在の境内に切り縮められたようです。

  旧長沼宿栗田町にある西厳寺は浄土真宗大谷派で、東本願寺の末寺です。今日では浄土真宗の寺院ですが、開創は1256年(建長年間)、場所は下総磯野郡で、当時は真言宗でした。開山は空晴という高僧によるものです。開創時の宗派と山号から見て、成田山新勝寺の系列だったのでしょう。
  空晴はもとは平政晴という武将で、第4代将軍、源頼経直属の家臣(御家人)として下総飯野郷に知行地=所領を得て栄えた家門の長でした。が、政晴やがて仏門に帰依し、真言密教の法を修めたとか。ところが空晴は、親鸞と出会って浄土真宗に改宗しました。
  さて、鎌倉幕府は、関東の有力武家領主たちが結成した最有力の同盟が盟主として源頼朝を担ぎ上げて組織した政権で、これに反抗したり離反したりする武士団や領主同盟はあちこちにいくつもありました。やがて武士団・同盟のあいだの騒乱やら幕府の内紛から関東ではひどい戦乱となりました。鎌倉幕府は崩壊して,やがて畿内に足利家の幕府が組織されました。
  戦乱兵火を避けるため、西厳寺は1338年、水内郡の駒沢刑部少輔の招きで下総から長沼に移転したということです。

  戦国期には、西厳寺には草津に向かう途次に連如が滞在し仏法を講じたことからこの寺院の格式が高まり、この事績を記念する蓮如堂が建立されました。
  ところで、千曲川河畔のこの寺は――松代藩による千曲川水系の改造工事の結果――、江戸時代中期以降には何度か氾濫で大きな被害を受けましたが、寺院としての格式が高かったため、そのたびに幕府の手厚い支援で再建・再興がはかられたといいます。
  現在、境内にあるのは、塔のような太鼓堂と鐘楼、連如堂、本堂などで、旧栗田町の寺町のランドマークとなっています。

  往時、西厳寺には多くの塔頭・支院がありましたが、長沼宿の各集落の成長とともに分寺され自立した寺院となったそうです。今もこの寺の近隣にある寺院のほとんど――西光寺、徳乗寺、証各寺、勝念寺――は、そういう付属の塔頭・支院だったようです。

  寺の境内と堤防との境界には桜の老木の並木があって、堤防道路の桜並木とあいまって花見の名所となっています。


▲境内北側の果樹園から見た本堂の姿


小径の両端に立つ西厳寺境内への入り口の門柱

参道入り口に立つ太鼓堂(太鼓楼):二階の花頭窓が印象的だ

かつては宿場に鳴り響くように時報の太鼓を叩いていたのだろうか

水害後で説明板はないが、蓮如堂だと思しき堂宇

現在の蓮如堂は、須坂の勝善寺からの見舞いとして再建されたものだとか

鐘楼と本堂:両社のあいだに立つ杉の大木が構図の均衡を保つ

参道中ほどから本堂正面を眺める

威風をはらう本堂は、浄土真宗寺院特有の結構をなしている


▲西厳寺本堂前からの景観: もとはひとつの寺院の境内だったので寺院と堂宇が密集している。画面にあるのは左端から蓮如堂、太鼓堂、
西光寺、勝念寺、徳乗寺本堂の屋根(右端)

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