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長野県長野市赤沼
赤沼西小路かいわい


▲赤白のコーンの先で左折して西小路に入ると赤沼分家館跡にいたる

▲西小路の250メートル南の小径。この小径沿いにも重厚な和風民家が並んでいる。

▲庭木で隠れているが、この土蔵は土台を1.5メートル以上嵩上げしてある

  ここでは「赤沼分家館跡かいわい」とは、津野の北の三叉路から妙願寺前の西小路辺りまでの旧街道西側の一帯を指すものとします。この一帯には、昭和中期(1960~70年代)に建てられた重厚な造りの和風建築が数多く残っています。
  先年の水害で荒廃して崩壊寸前となり、すでに解体撤去されてしまった古民家もいくつもあるようです。また、壁や床に大きな痛手を受けていて、現在修復ないし修築中のものが多くあります。改築よりも、和建築専門家による床の修復や左官職人による壁の修復で将来に伝統的な和風建築を残していこうという動きが見られます。

■重厚な和風建築や土蔵を探索■

妙願寺前から見て、お堂風の寄棟造の建物を右に入る

左端の赤い屋根が延命地蔵堂で、その辺りが居館跡地

赤沼集会所の前から地蔵堂を眺める

赤沼分家居館跡の南側にある白壁土蔵
嵩上げした土台の上にたつ白壁土蔵(文化館跡の西側)

厨子二階の主屋が土蔵に隣り合う配置が美しい

小路の先は果樹園などの農耕地

白壁の住宅や土蔵が軒を連ねる景観: 修復中の家屋が多い

広壮かつ重厚な和風建築(これも修復工事中)と手をかけた庭園

水害で壁がひどく壊れている和風古民家(昭和期の建築)

■江戸前期の赤沼村の中心部■


家並みと果樹園が隣り合っている▲

  赤沼集落南端の二股分岐から700メートル北に進んだところに西向きの小路の入り口があります。右手には妙願寺が見えます。ここを左折して西に向かいます。
  すると100メートルほどで、赤い金属版屋根の小さなお堂があります。これが延命地蔵堂で、近くには土蔵と赤沼上組の集会所があります。この一帯が、赤沼分家の居館だったそうです。ここが赤沼村の統治の中心地だったのです。

■悲運の佐久間家一門■

  1642年(寛永19年)、第三代長沼城主、佐久間安房守勝豊の弟、勝興は、城主家から赤沼の3000石を分封されて赤沼分家を興しました。やがて幕府の旗本に取り立てられて、赤沼領が知行地となりました。
  ところが40年後(1682年)、第二代の勝重は、祖父(勝興の父)が罪科で流刑となったことに連座して所領(赤沼)を没収され、家門断絶となったといいます。その20年後、長沼藩主家が改易され廃藩となります。その頃、幕閣では苛烈な権力闘争が展開されたので、佐久間家の断絶はその余波かもしれません。
  幕閣では権力闘争の勝者によって、すでに死去した大久保長安の罪科がことさら糾弾されたようです。長安は佐渡金山の開発・経営を宰領していて、佐渡の金は北国街道松代道を通って江戸に運ばれたので、そのことも関連しているかもしれません。長沼藩主とその一門の悲運については、長沼城跡とその歴史を探訪する記事で詳しく述べることにします。

■赤沼分家館跡かいわい■

  その後、18世紀はじめ、赤沼分家館跡には阿弥陀堂が築かれ、さらにやがて浄土宗鎮西派の花林山蓮生寺が建立されました。しかし、明治以降に後継者が絶えたところに長沼地震で堂宇が大破し、まもなく解体されたようです。現在は延命地蔵堂と土蔵が残っています。
  そして、今でも集会所の南側には一群の墓石や石塔が残されています。


居館跡の脇を通る小径の地蔵堂▲

蓮生寺あとに残る墓標群▲

  居館跡であもあり蓮生寺跡でもある草原と墓石群は、時代の変遷と世のの無常さを象徴しているかのようです。居館跡には建物がいくつもあったに違いありませんが、今では果樹園や菜園となっているところも多いのかもしれません。
  それにしても、上組地区は赤沼村の行政の中心地だったことから、周囲が農地に囲まれている割には、敷地割りがかなり細かくなっています。家屋が比較的に密集していたものと見られます。
  もっとも、北国街道松代道沿いの敷地割りは、総じて間口の幅が狭くなっているのですが。

■近隣の家並みを探索する■

  さて、延命地蔵堂から南側の家並みを探索してみます。
  和風の住宅は、外観から見ると昭和期の建築のようですが、赤沼の伝統を受け継いでいます。まず結構では、妻面の梁や横木の数の多さです。そして、屋根を支える垂木の密な配置です。重い瓦屋根をしっかりと支えるためでしょうか。


家並みはリンゴ園などの農耕地に囲まれている▲

土蔵の白壁はすでに美しく修復されている▲

軒に鼻を見せる密な垂木▲

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