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長野県長野市穂保
  【写真:千曲川堤防に連結している長沼城跡・天王宮】
  1816年に始まった長沼藩は、1688~89年にかけて廃藩の手続きがおこなわれ、藩主の佐久間家は改易になりました。つまり、藩主直系の佐久間家は武家の身分を剥奪されたのです。
  それとともに城の破却(解体)が進められ、土塁や石垣は崩され、堀は埋め立てられて更地となり、やがて河畔の荒蕪地や農耕地になっていきました。
  長沼藩の歴史はわずかに70年ほどで、城の建設開始から完成までには何年もかかったでしょうから、形を整えてからの城の歴史はそれよりも短いということになります。
長沼の歴史探訪

■長沼城をめぐる歴史■

長沼歴史研究会刊『長沼城の研究』から転載
ここには戦国末期から江戸時代初期の長沼城の本丸と二ノ丸、三ノ丸馬出が描かれている。天守や藩庁御殿はなく、物見櫓や板葺または草葺き屋根の陣屋がある。この城は、戦国時代の武田氏の城砦の設計思想がそのまま残っている。その根拠は、本丸の北西南の三方に設けられた、みごとな丸馬出と三日月堀だ。小規模な城にしては鉄壁の防御と攻撃の性能をもつ結構だ。


本丸と二ノ丸との境界辺りの堤防上から天王宮あとを眺める

石塔や祠が並ぶ小丘を見上げる: 小丘にはケヤキやクヌギの大木が並ぶ

六地蔵町と内町との境辺りに続く農道: 古くは大手道だったか

堤防下の農道: この先に二ノ丸の冠木門があったか

二ノ丸北側跡から天王宮を眺める

洪水の傷跡が残る内町の様子: 内町は城郭の主要部を占めていた
菜園や果樹園、古民家の多くが破壊されてしまったため、更地が目立つ。

  左のイラストは、長沼藩時代入りも前の城の姿を復元したものです。戦国時代の城には陣屋や櫓、石垣、土塁、堀はありますが、天守はありません。長沼藩になってからも天守はつくられませんでした。天守の建築には莫大な費用がかかるうえに、幕府の許可が必要でその手続きにも相当な資金――老中などへの根回し資金――が必要であってみれば、わずか1万石あまりの小藩には不可能だったでしょう。
  そもそも徳川の覇権のもとでは戦と軍事的威嚇の装置としての天守は必要なくなっていました。大坂の陣の後、すでに城は武力闘争の装置ではなくなり、徳川の覇権のもとでの平和の象徴となっていたのです。【⇒武田家時代の長沼城】【⇒長沼藩時代城の縄張り資料】

■長沼藩の前史■

  さて、長沼の地における城砦の構築に関する記録は、武田家が北信濃に侵攻してきてからのことで、1561年(永禄年間)に始まるそうです。信玄は弟の信豊に築城の命令を出して建設を始めたのです。
  千曲川河畔の築城の地は、もとは武田家が追い立てた以前の領主、島津氏の居館があったところだとも伝えられています。追われた島津家は、現豊野町の大倉の城砦に立てこもり、上杉家に来援を求めて臣従することになったそうです。
  はじめは、島津家の反撃や上杉家の来襲に備えた急ごしらえの砦だったようですが、7年後、武田軍の武将、馬場信房の縄張り(設計構想)にもとづいて、土塁や馬出し、桝形、堀を備えた城砦が構築されました。
  工法としては、水濠を設けるために掘り上げた土砂をその縁に盛り上げて土塁とする「掻揚げ築城」だったとか。堀には千曲川から水を引きました。

■縄張りと城の構造■

  その後、武田勝頼による改修や武田家滅亡後には織田家の家臣による城砦の修築がありましたが、基本的に武田家の城砦の基本構造の上に長沼藩佐久間家の手になる城郭の建設がおこなわれたと見られています。してみると、武田家の支配下での城の縄張りは、侍屋敷町の大半を包含する惣構えであったものと考えられるそうです。
  さて、長沼藩時代の城の縄張りを見てみましょう。【⇒長沼城の縄張り図】それは、戦国末期の城の構造を手直ししたものです。
  長沼城は千曲川の畔だったので堀に入れる水の量は豊富だったでしょう。堀の水は城の上流部から水路で引き入れ、中堀や三日月堀、外堀に回して、最後にふたたび千曲川に排水する循環水路となっていたようです。「ステ堀」と呼ばれる水路が河川水の取入れと排水用の水路だったと見られます。

  上掲のイラスト【⇒拡大図】では、各廓には物見櫓と板葺の長屋風の陣屋しか設けられていませんが、江戸時代初期の小藩の城郭はおしなべてそんなものだったはずです。長沼藩が廃絶されてから、商工業の発展とともに、上田城の櫓のような漆塗りの腰板や漆喰壁に瓦葺き屋根の櫓や御殿が建設されていくようになったのです。

■長沼の戦略的重要性■

  北信濃は、豊臣政権では決定的に重要な地域で、ことに長沼と松代は関東で力を拡大している松平家康に対する戦略的要衝でした。秀吉は上杉家を越後から会津に移封させて関東を北から威圧・牽制させ、松平家を畿内と会津から取り囲む形にしました。
  そして、飯山から長沼の一帯を豊臣家の直轄地(蔵入地)としました。
  一方、家康は関ケ原で勝利してから、北信濃の飯山から長沼にいたる地域には、股肱の家臣を置いたのち、さら北信と越後を擁する大領主として実子の忠輝を配置して、豊臣家――ことに加賀前田家――の東への影響力を封じ込めました。
  しかし、大坂の陣で豊臣家を滅ぼしてのちには、強敵が除かれたせいか、徳川家門の内部での跡目をめぐる権力闘争・派閥闘争が目だってきたようです。
  忠輝は家康から勘当され、蟄居ののち大坂の陣の年には改易されてしまいました。さらに、もうひとりの家康の息子、秀康は切腹に追い込まれました。この動きは、家康の跡目相続や幕閣の政策をめぐって徳川一族と有力譜代大名のあいだの派閥闘争が絡んだものと見られます。
  長沼を含む北国街道松代道は、佐渡金山からの地金の輸送やら、大藩外様大名前田家の参覲経路でもあって、重要な交通の要衝でした。

■領主、佐久間家の命運■

  そこに、徳川忠輝が改易された翌年の1616年、大坂の陣での戦功を評価されて佐久間安政と勝之の兄弟がそれぞれ、飯山(3万石)と長沼(1万8千石)の藩主として入封することになりました。北信の要衝を長沼家門に任せたのです。両藩主はともに近江高島郡に飛び地領地を保有していました。


堤防から見る貞心寺: その境内はその昔、長沼地行所の居館と陣屋だった▲

  さて、長沼藩佐久間家は、勝之死去ののち、病弱の長男、勝年が夭折していたので次男の勝友が領主位を継ぎました。勝友は勝年の長男、勝盛に所領のうちから5千石を分け与え、勝盛は幕府の旗本となりました。この旗本領地を長沼地行所と呼ぶそうです。この領地の支配のために、かつて勝利が住んだ居館脇に陣屋を置きました。
  さらに、次代藩主の勝豊は弟、勝興に所領から3千石を分知して、1万石を藩領として継承しました。勝興もまた幕府の旗本となりました。その領地を赤沼地行所と呼ばれ、そこには居館と陣屋――地元の人に赤沼分家屋敷と呼ばれる――が置かれて所領の統治を任されました。
  長沼藩佐久間家はわずか1万石ほどの小藩ですが、現在の長野市豊野から飯綱町、信濃町にいたる山間・山麓一帯に農耕地や灌漑水利を拓いて村落を増大させ、そこそこ豊かな穀倉地をつくりあげました。
  このように幕藩体制の礎を築いた佐久間家家門でしたが、飯山藩家は1638年(寛永年間)に後継者を失って改易、長沼地行所は1646年(正保年間)に同じ理由で絶家、赤沼分家は親族の災禍に連座して改易となり、長沼本家も職務怠慢という理由で1688年(元禄年間)に改易されてしまいました。
  長沼地行所の居館・陣屋跡はその後、貞心寺の境内となり、赤沼分家屋敷跡には蓮生寺が建立されました。蓮生寺は明治に後継者がなく廃寺となり、今では延命地蔵堂と集会所となっています。

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