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               関ケ原合戦の翌年1601年、関長門守が長野の長沼から飯山に移封され、それとともに忠恩寺もこの地に移転してきました。それから三十数年後、忠恩寺は藩主家の菩提寺となり、その後、歴代藩主家と最も恩顧の深い寺となりました。江戸時代には、現在の愛宕通り沿いの寺町全体が忠恩寺の境内で、そこにある個々の寺は忠恩寺の塔頭支院だったそうです。藩主の菩提寺は、飯山城の真西の正面にあったのです。
 ところが、1868年の戊辰戦争で城下町飯山は、幕府派の浪士隊と官軍派の藩軍との戦闘のなかで起きた大火災の結果、町全体が灰燼に帰してしまいました。忠恩寺の本堂は丘の上の森のなかにあって焼失を免れたようです。しかしそのとき、寺町の寺院や街並みも焼失し、焼け跡から明治初期の復興が始まったので、寺町の構図もすっかりかわってしまったようです。
  ▲奈良沢、上倉方面に向かう道沿いの段丘登り口に忠恩寺がある
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