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長野県東御市本海野
寺社や祠をめぐる

  古い歴史の街並みを歩くときの楽しみは、人びとの素朴な信仰を集めたであろう寺院や神社、祠を探して歩くことです。
  ここでは、白鳥神社や興善寺などのほか小さな地蔵堂や祠などをめぐります。


▲中世の豪族、海野氏の居館跡付近から海野宿――瓦屋根の列――を眺める


▲何万年もの歴史を刻む火山岩の上に立つ双体道祖神(右下)と冬の陽だまりのなかの道祖神(右上)

■人々の崇敬を集めた場所■

◆媒(なかだち)地蔵尊◆


▲旧地蔵寺跡の碑

  寺社や祠の話になると、どうしても古い歴史に遡ることになります。
  平安・鎌倉時代にかけて東信濃には「滋野三家」と呼ばれる豪族が有力だったとか。海野氏、根津氏、望月氏です。そのなかでも最も勢力を誇ったのは海野氏だといわれています。
  その海野氏の家臣、赤石藤治智信がこの辺りのどこかに、縁結びの菩薩である媒地蔵を祀り小庵を建立したのだとか。その後、衰微し、室町末期(天文年間)に中興開山によって地蔵寺がこの近くに建立され、やがて元禄期にこの地に移設されたそうです。

◆柳原神官の石祠◆

  海野宿白鳥神社の境内に新海神社――本来は佐久にある諏訪社系の神社――の社(本殿だけ)があります。海野郷の領主が勧請したもののようです。
  その宮司、柳原家の屋敷内に祀られていた石祠群が、海野氏の城館跡の片隅に残されているということです。
  この祠群がある辺りは、海野氏の城砦の南西端に当たる地と見られています。そこから差し渡し300メートルほどの一帯が海野氏の城砦(居館と防備)があった場所なのだとか。

◆興善寺(海野氏の菩提寺)◆



▲壮麗な山門

  瑞泉山興善寺は、海野宿の北ほぼ1キロメートルほどのところにある曹洞宗の禅寺です。開創は海野氏の家門に属す高僧によるもので、16世紀はじめと伝えられているそうです。
  海野氏は9世紀の後半頃にこの地の荘園を開拓し、その後600年余りも治めていた豪族でしたが、戦国時代(16世紀半ば)に武田家の侵攻によって滅びました。
  上田神川の畔で武田軍と戦い斃死した海野小太郎幸義の霊を祀るのが、興善寺です。海野幸義は真田家の祖、幸隆の父親で、いわば真田の本家。
  この禅寺があるのは、海野宿の北西から北に続く千曲川河岸段丘の最上段にいたる急斜面で、高低差は15メートルほどもあります。急な斜面は堅固な石垣によって支えられていて、あたかも城郭のような趣です。
  そのため、境内の南端から、海野宿がある御牧地方の盆地と山岳のパノラマを眺望できるのです。


▲境内の景観


◆滋野神社(八幡社)◆


▲滋野神社拝殿

  海野宿から北北東1.5キロメートルほどの丘陵地に滋野神社があります。豪族海野氏の居館や海野郷から見るとほぼ鬼門方向になります。
  戦国時代までは、その南東側に広大な寺領と境内を擁する海善寺がありました。が、江戸時代初期に真田家が上田藩の領主となったときに滋野神社とともに上田城下に移設されたので、今では遺構もなく、ただ海善寺という地名・地籍が残っているだけです。
  ともあれ、戦国時代までは海善寺や滋野神社が一体となって、海野郷の鬼門除けの森や宗教施設となっていたことでしょう。今では、南向き斜面の住宅地に畑作地が混在しています。
  この神社に関する史料・記録は見つかっていないようで、その由縁や来歴はほとんど不明のようです。戦国時代から江戸時代まで、海野郷の鬼門に位置する八幡社――源氏系武士の棟梁の先祖を祀る神社――として崇敬され、ことに農耕地や村落の開拓が進んだ江戸時代に産土神たる八幡社として祀られ、明治になってから滋野神社と改名されたようです。


▲境内から鳥居前の参道(南側)を見る




◆新海神社◆

  新海神社は、現在は海野宿東端の白鳥神社境内に移設合祀されていますが、もともとは海野氏居館(城館)跡にあったものです。海野氏が城砦内に祖霊として祀っていたようです。
  新海神社(新開神社とも記す)は新海三社神社とも呼ばれ、遥か昔、千曲川上流部の佐久地方を開拓した部族の神ということなので、海野氏の源流は佐久地方にあることを物語っています。
  新海三社神社は、大国主大神の子孫である興波岐命オキハギノミコト建御名方命タケミナカタノミコト事代主命コトシロヌシノミコトを祭神とする佐久地方の神社です。三柱の神を祀っているので「三社」という呼称が付加されています。
  大国主大神の子孫を祀る神社なので、諏訪大社系の神社です。大和王権系の神々連合によって出雲から追われた諏訪系神々は僻遠の未開地、信州に移って開墾開拓をおこなったのですが、とりわけ千曲川上流の佐久地方の原生林と原野を開拓し、広大な農耕地と集落を形成した部族の王が興波岐命なのだそうです。
  佐久開拓の指導者、興波岐命を祀るとなると、その父である建御名方命、伯父である事代主命をもともに祀り、大国主大神の系統であることを強く印象づけるようにしたものでしょう。
  佐久地方由来の神々が、諏訪社系であることは、平安末期から鎌倉期に武士が台頭するとともに強調されるようになったといわれています。それは、私見では、地方豪族たる武士たちが大和王権(朝廷)とは別系統の出自であること、場合によっては朝廷に対抗する勢力であることを神話的に表明したかったということではないかと思われます。
  大和王権系と諏訪社系との関係のように、日本の神社の世界にこのような対立的区分や対抗があることは、明治以降の天皇制イデオロギーのもとに全国の神社を階層序列化する動きのなかで埋没してしまったのかもしれません。


◆白鳥神社◆


▲拝殿の内部の様子

▲境内の景観

  日本武尊の伝説を縁起とし、滋野=真田家の始祖として清和天皇の親王を祀る神社です。おそらく元来は海野氏や同族の滋野氏の祖霊を祀る神社であったものが、武士の台頭とともに清和系統に祖霊の起源を仮託する由緒に組み換えたものと思われます。
  災害や災害で資料が失われていたところに、明治維新での神道思想による神社序列化の運動のなかで、古い起源や民衆の素朴な信仰の起源はさらに埋没してしまったようです。
  それでも、鎌倉幕府下に参集した海野幸氏が1191年にこの地に祖霊の神社を移設したと伝えられています。
  当時、ここはケヤキ樹林で、樹齢100年近い巨木が林立してのかもしれません。千曲川河畔ですが、強靭な根を張ったケヤキの樹林が境内を守ってくれると信じて神社を勧請したものでしょう。2019年10月の増水でも、地盤岩塊を捕えていた樹根が境内と河岸の崩落を防いだのだと地元の人びとは信じています。


地蔵尊安置場所:ここには馬頭観音碑などが集められている

縁結びの菩薩、媒蔵尊の小さなお堂
「縁結び・なかだち地蔵」といのは珍しい地蔵です。
東京巣鴨には「とげぬき地蔵」があるように、地方ごとに
地蔵菩薩に託した個別の願いを象徴する地蔵があるようです。

国道18号沿いにある石祠群


曹洞宗らしい「不許葷酒入山門」の戒律碑

石段をのぼると壮麗で重厚な楼門

美しい結構の本堂

石垣壇上に城のような趣で屹立する楼門

参道からの滋野神社の眺め

石の鳥居「八幡社」の扁額

石垣壇上に拝殿が鎮座

拝殿奥の本殿:サワラの樹林に囲まれている

白鳥神社本殿の東脇に鎮座する新海神社本殿

本殿の造りはかなり古そうに見える

新海神社本殿は蓋殿のなかに収められている

白鳥神社の鳥居と石灯籠

ご神木ケヤキと拝殿。右奥は新海神社。
老巨木は推定樹齢700年以上で、ほかにも何本かある。

本殿の様子

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