長沼をめぐる旅 案内絵地図

  この絵地図は、このサイト記事のなかでは最も概略的な(大雑把な)絵地図です。簡略化されているので、もっと詳しい絵地図が見たい場合は、このサイトの
@「長沼宿上町・栗田町」
A六地蔵町・内町、津野」
B「赤沼」の絵地図
を見てください。
  戦国時代に長沼は、上杉家と武田家との北信濃をめぐる攻防戦の中心地(古戦場)のひとつです。戦国の世に幕が下りて徳川幕藩体制(江戸時代)が始まった頃、ここには長沼城を中核として佐久間家が支配する長沼藩がありました。
  1616年(元和2年)、佐久間勝之は大坂の陣での戦功によって、幕府から長沼1万8千石を領する藩主に封ぜられました。しかし、佐久間家はそれから4代、72年にして武家諸法度に違背したとして藩主の地位を奪われ、廃藩になってしまいました。藩領は幕府が没収して天領(直轄領)となりました。
  幕府の天領統治は24年間続いたが、その後、1711年(正徳元年)に飯山藩青山家、次いで1786年に(明和5年)に越後高田藩榊原家、最後に幕末1865年(慶応元)年に松代藩真田家の預所領となりました。

  さて、室町・戦国時代を通じて北信濃の経済の中心地のひとつで交通――千曲川水運と陸上路でともに――の要衝であった長沼は、武田家と上杉家が勢力圏に取り込もうとして互いに争奪戦を繰り返した地でした。
  武田家は、松代の海津城と並ぶ北信の戦略拠点として長沼に城砦を築き、甲斐から佐久、上田を経て屋代から千曲川東岸を北上する軍道を開削し、軍略上の物資の輸送や一般の経済物流路として利用しました。他方の上杉家も、長沼を攻略し支配したさいには、越後と連絡する北国道から長沼にいたる軍道を開削し、善光寺道よりも長沼道を利用するように法令を定めました。
  上杉家、武田家はともに戦役のない平時には、長沼道を通って松代や上田、小諸におよぶ交易と物流を大いに促進したものと見られます。江戸時代になると、幕府や各藩は軍事的防衛ならびに経済物流のために街道制度(宿駅の建設)を精力的に推進しました。松代藩と長沼藩が中心となって、北国街道松代道(長沼道とも呼ばれる)の開削整備と宿場街の建設を取り仕切りました。

  北国街道松代道の各宿駅(宿場街)が千曲川の畔に位置していたので、舟運で大量の物資を輸送するのにきわめて効果的でした。旅人は主に渡河のときだけ舟運を利用しました。松代道=長沼道は、千曲川東岸の福島宿で、須坂・小布施を経て中野・飯山j方面に向かう谷街道、そして菅平を越えて上州に向かう大笹街道と結びついていました。
  福島宿の隣にあって千曲川対岸に位置する長沼は、牟礼で北国街道善光寺道と連絡する交通の要衝だったので、物流の結節点として機能し、殷賑をきわめたといわれています。
  長沼城が破却された後にも、城跡の近隣には天領の代官役所と陣屋が置かれていました。したがって、長沼は北信の幕府による統治・行財政の中心地として機能し続けました。つまり、城下街としての役割は120年間以上保っていたようです。してみれば、街道宿場街でありながら同時に行政の拠点ともなっていた長沼は、経済活動の拠点としても発展を続けました。
  高田藩や飯山藩の預所領となったときには、長沼の商業都市・宿場街としての地位は固まっていたので、その後は、むしろ主として物流や経済的機能を専門的に担うようになったのではないでしょうか。

  長沼地区の都邑や集落は、農耕地や樹林を間に挟みながら、長沼宿上町、栗田町、六地蔵町、内町、津野村までほぼ3キロメートル近くも断続し、そこからさらに田園地帯を経て赤沼まで1キロメートル以上も延びていました。総計で4キロメートル(一里)以上も街や集落が断続するほど繁栄したのは、私が知る限り信州ではここだけです。
  人口が200以上もあれば、堂々たる街として位置づけらていた時代です。
  その豊かな文化の痕跡が長沼のいたるところで見出せます。そういう特徴のひとつが寺院の多さです。おそらく、この文化的に豊かな一帯は、賢明にも、明治維新での神仏分離・廃仏毀釈の破壊運動に巻き込まれる事態を防いだものと見られます。