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長野県長野市大町~
穂保~津野~赤沼
平安時代に開創か


▲旧街道からの大田神社拝殿の眺め: 現在の社殿の以前には明治3年に竣工された茅葺の社殿があった

  大田神社の所在地の地名は、ここだけが「赤沼宮配」という地籍となっています。ほかにも、かつては「一ノ配」という地籍があったようです。相当に古い名称のようです。「配」というのは、赤沼を荘園として領有した京洛の貴族、あるいは豪族や領主や藩主など、この地の支配者が神社に割り当て当てがった土地という意味なのでしょうか。
  大田神社(古くは大田八幡宮)はその開創起源が不明ですが、神社の来歴の探索のためには、上記の地籍名の解明が必要だと私は考えます。しかし、今のところ手がかりはありません。

■平安末期に再建、では起源は?■


▲明治3年竣工の茅葺造りの拝殿の姿

  大田神社は、古くは大田八幡宮と呼ばれていました。往古には守大田社と呼ばれていた守田神社の伝説では、1000年ほども前に長沼の田畑と集落の開拓がおこなわれましたが、一帯を支配し開拓を指導したのは大田氏という豪族(君侯)だったそうです。その後、大田郷は太田郷と綴りが変わったようです。
  してみると、大田八幡宮は「大田の庄」と呼ばれていた長沼の発祥起源にかかわる神社かもしれません。
  社伝では、平安末期の1120年代(大治年間)に近隣の領主、若槻伊豆守が、すでに荒れていた社殿を再建したということです。若槻郷は、長沼から西に4キロメートルほど離れた山裾丘陵地帯にあります。ということは、それよりも前から前身となる神社(たぶん寺院と一緒に)があったことになります。
  八幡宮ですから信濃源氏系武家の神社ということになります。
  大田という地名を表す社号からすると、太田八幡群は平安時代に太田庄が開拓された頃からあって、この開拓を指導したのがこの地の豪族または地頭領主、あるいは国司からここに派遣された武士だったとも推測されます。
  1808年(文化年間)に大田神社と社号を改めたそうです。 善光寺地震では大洪水が起きて、この神社も大破したといいます。その修復には、境内にあったケヤキ老大樹(樹齢1000年超)の木材を使って、社殿の蟇股や神像を彫刻したと伝えられています。


▲青年たちとともに遊ぶ子どもたち

▲焚火のまわりで子どもたちは料理に挑む

  取材したこの日(2月中旬)、近隣のヴォランティア青年たちが、近隣の子どもたちを集め、昔ながらの遊び――焚火や野営用料理づくりなど――を楽しむ機会を設ける活動をしていました。


▲社務所兼神官住居の古民家


旧街道脇の境内と参道入り口の大鳥居

開創から大田神社境内を振り返る: 街道を挟んで右端は社務所

拝殿前から大鳥居を振り返る

明神社風の造りだが伊勢社と思われる

鳥居をくぐって拝殿を眺める

中央は神社の本殿: 右端が拝殿

街道の向かいにある社務所兼神官の住居となっている古民家。
江戸時代の造りをとどめているので、社殿よりも価値がありそうだ。

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