| 
                     
                  ▲六地蔵前からお堂の屋根を見あげる 
                    
                  ▲庚申塔などの石塔と常夜灯 
                    赤沼の「西小路」という呼び方は、古くからから続いてきた呼び名のように感じます。江戸時代前期に旗本の佐久間家があった頃よりもずっと以前、鎌倉時代から室町時代に長沼の領主だった島津家もこの辺りに分家の居館と所領を置いたということなので、あるいはその頃から西小路という呼び名があったのかもしれません。 
                    「分家屋敷通り」とか「分家屋敷小路」というような呼称は、礼を失するからです。京都の錦小路や姉小路などにも似た呼称の方が、風雅で品格がある呼び名です。 
                    さて、1682年に旗本赤沼分家が改易されてから20年ほどたった頃(1701年)、その跡地に善導寺の僧、玄鉄によって蓮生寺が開創されたそうです。阿弥陀堂がある、浄土宗鎮西派の寺でした。それから250年以上も続いたのですが、明治時代に後継者がなく無住となり、地震にあっていよいよ堂宇が荒廃したため、廃寺となったようです。 
                    今ではここに赤沼上組の集会所があります。その周囲には、いくつも墓石や石塔、石仏の群が残されています。隣接する民家の敷地には、古くから伝わる石の祠が立っていて、屋敷神として丁寧に祀られています。 
                    明治以降のあるとき、洪水ののちに泥土のなかから延命地蔵が見つかったため、水害の回避や水害からの救済を願って、敷地の片隅に地蔵堂を結んだようです。今でも、ここには石地蔵があるので、蓮生寺の六地蔵のひとつが掘り出されたのかもしれません。 
                    地蔵堂は内部の床面積が2畳ほどの小さなものです。中には延命地蔵が祀られているようです。お堂の北側の壁の前にも小径に面して六地蔵が並んでいます。石塔・石仏群が並ぶこの地に立つと、過ぎ去っていった時代が偲ばれます。 
                    
                  ▲集会所北側に並ぶ墓石と石仏など 
                   | 
                    
                  西小路が緩やかに曲がる場所の南にある地蔵堂と赤沼分家屋敷跡 
                    
                  蓮生寺墓苑跡の遺構に立つ石地蔵: これらが地蔵堂の起源となったのか 
                    
                  地蔵堂の正面(西向き)、お堂脇に並ぶ石仏や石塔 
                    
                  小路に面して並ぶ六地蔵 
                    
                  お堂の背後(南側)には昭和中期に建てられたと思しき土蔵 
                    
                  土蔵の裏(お堂の南側)から地蔵堂を眺める |