本文へスキップ
長野県長野市穂保
信州まちあるきの記事
木曾路をめぐる旅
奈良井まちあるき
庭園都市おぶせ
別所温泉~塩田平
外部サイト
長沼歴史散歩
内町の街並みと歴史


▲幕末頃の建築様式を保っている中澤邸古民家: この屋敷の背後に長沼城の外堀があったという

  私には六地蔵町と内町との境目はわかりません。ここでは便宜的に、長沼城跡(天王宮)から真西に伸びる小径(農道)を便宜上の境界として、そこから北側を内町通りと見なします。内町は「外堀の内側」という意味だそうです。したがって、長沼の城下街の主要部ということになります。【⇒六地蔵町・内町・津野の絵地図】
  長沼藩時代には、北国街道松代道の両側には茅葺の武家屋敷が整然と並んでいました。屋敷内には庭園がつくられていたと思われます。街道を取り囲むように背の高い樹林が武家屋敷街に続いている景観は、街道の旅人の眼に城の防衛機構を見せないようにするための不可欠の条件だったのです。


▲内町通り脇の吉祥庵がある近辺: 中央の家屋の屋根には養蚕用の空気抜き小屋根が4つも並ぶ

  内町が城の縄張りの大方を占めているという見方になります。【⇒長沼城の縄張り絵図】
  「長沼城跡復元図」は、江戸時代の前期、内町通り沿いには長沼藩家臣の武家屋敷が隙間なく並んでいたことを示しています。今では、その大半が農耕地となっていて、ところどころに家並みが散在しています。
  

■古くは武家屋敷街だった内町■


▲家老宅跡の敷地内の庭と土蔵

▲長沼藩主が使った手水台(石製)

▲土蔵だけ残り、主屋は水害で破壊されたようだ

◆武家町の痕跡を探す◆

  昔の地籍の境界がわからないので、便宜的に長沼城跡(天王宮)から西に向かう小径から北側を内町と見なして、それと内町通りとの交点から北に歩くことにします。

  内町通りを歩いて気がついたのは、各民家の敷地の広さです。長沼城縄張り復元図の町割りを見ると、屋敷地が広いので、内町は藩の上級家臣の屋敷街だったようです。その意味では、長沼藩時代の痕跡が敷地として残されているということになります。
  もちろん、廃藩後に多くの家臣は長沼で帰農したようですから、広い敷地を農耕地に変えた家門も多かったでしょう。街道沿いで家並みに割り込んでいる果樹園などの農耕地は、かつては武家屋敷の庭園や家屋の跡なのかもしれません。
  端正な小ぶりの薬医門があるお宅を訪ね、おばあさんに話を聞いたところ、長沼藩家老の子孫で、ここは古くは家老邸だったそうです。庭の片隅には、350年蔵前に殿様が使ったという石製の手水台が横たえてありました。
  道路側に薬医門を抱えているのも、そういう家柄というか伝統が受け継がれているせいかもしれませんね。
  数年前までは、内町には昭和期に改築なし修築された歴史ある古民家がいくつも通り沿いに並んでいたのかもしれません。ですが、ただでさえ老朽化していた古民家のほとんどが水害で壊されてしまったようです。


▲果樹園の跡に立つ三界万霊塔は宗栄寺の跡

  さて、長沼城跡から歩き始め、内町公会堂のひとつ南の小路を西に曲がって荒堰沿いの小路まで行くことにしました。その途中で草原のなかに「三界万霊塔」があって、その脇に「宗栄寺跡」という標柱が立っています。宗栄寺は、古くは地蔵院という寺号で荒廃していたものを1737年にこの地に移し 玅笑寺の庇護下で再興された寺だとか。その後、さらに善光寺の西方の往生寺に移って尼寺となったといわれています。
  長沼は、そういう歴史の変遷を伝える痕跡が大切に保存されている地区なのですね。
  では、畑作地や果樹園越しに内町通りを眺めてみましょう。
  やはり内町通り沿いに大きな結構の古民家や土蔵が並んでいます。各戸の庭も手間と費用がかけられていて、武家町の庭園の名残りが伝えられているような気がします。長沼は城下街ではなくなってから長い期間農村でしたが、家屋の構えの大きさや庭園の風情に独特の文化(気風)がにじんでいます。


▲右手に長屋門を組み込んだ二階屋

  先年の洪水がなければ、旧街道沿いには長屋門を備えた古民家がたくさん残っていたはずです。長屋門は、敷地の表通り側に蔵や作業屋を立てて、通りと屋敷の仕切りとする門で、中下級武士の家門に多い造りです。もちろん江戸時代には、屋根は茅葺きまたは草葺きで白壁ではなく、土壁のままでしたが。
  土壁の芯材として葦を使っていて、何十年かごとに壁土を塗り直しながら長持ちするようにつくられていました。そういう造りは、今となっては文化財級の価値があります。
  さて、内町通りに戻って吉祥庵から鉤の手を歩いてみましょう。
  吉祥庵は長沼でただひとつの尼寺で、六地蔵の代わりに観音像が6つ並んでいることで知られています。庵の北隣には、通りに沿って長い棟の古民家がたっています。屋根の大棟上には空気抜き穴を覆う小屋根が4つも並んでいます。養蚕のために通風をよくするための造りですが、装飾性も備えているようです。
  鉤の手脇の古民家は、米沢邸です。江戸後期から明治はじめの建築様式を今に伝える貴重なもので、現在、歴史と文化を保存するための拠点としての修復・復元を計画中だそうです。


▲荒蕪地の先に正覚寺の庫裏が見える


便宜上、この道を境に北側(左側)を内町とする: 道の先には長沼城跡

家老邸跡の民家の真新しい薬医門

通りに面して土壁の土蔵が並んでいる: 壁面は腰板で覆われている

旧街道西側の果樹園から眺めた内町の家並み

白壁土蔵が印象的な脇道の集落(荒堰沿いの小路で)

果樹園に取り巻かれた集落

道脇の農業用水路が「荒堰あらせぎ」らしい

左手の土蔵と中央の家屋のあいだを内町通りが通っている

畑作地越しに内町通りを眺める: 正面の大きな家屋の向こう側に旧街道がある

大棟上に4つの空気抜き小屋根が並ぶのは養蚕用の家屋だった

江戸後期の建築様式をとどめる米沢家の古民家

内町通りのの鉤の手: ここで旧街道は直角に曲がる

|  前の記事を読む  ||  次の記事を読む  |