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長野県佐久市望月
 
  中山道望月宿は、蓼科山の北側の尾根群の降水を集めて流れ下る鹿曲川がつくり出した峡谷のなかに位置しています。
  街の東に迫る御牧原は、鹿曲川と千曲川の2つの大峡谷に挟まれた標高800メートル前後の高原台地です。
  写真:街道西側の段丘から見おろす望月の街並み。背後の尾根は御牧原の西端の尾根で、そこには望月城跡がある。

 
鹿曲川の峡谷を往く


▲丘陵台地から鹿曲川の峡谷の底に降りていくような街道。両側に家並みが続く。標高はこの坂の下(軽トラの手前)が一番低い。

  茂田井から尾根丘陵をのぼってきた旧中山道は、急流、鹿曲川が削り出した峡谷へと下っていきます。この峡谷は、蓼科山の北麓を流れてきた鹿曲川が御牧原台地に衝突して北西向きに曲がり、そのあとは蛇行しながら北向きに流れ、やがて千曲川と合流する地点まで続きます。望月宿は、北西に曲がる谷間の底にある河岸段丘に位置しています。
⇒中山道と望月の絵地図
  このような地理的環境からして、古代から鹿曲川の水害に悩まされてきたところです。


▲望月宿の北端の街並みの奥に鹿曲川の峡谷が続く。峡谷は北に向かっている。

  望月宿の街並みは、鹿曲川西岸沿いに往く旧中山道の両側に続いています。旧街道は、街の南端の少し手前の十字路で東に折れ曲がって鹿曲川河岸まで下り、橋を渡って渓流を越えてから御牧原台地の西端の山腹斜面をつづら折れにのぼっていきます。
  望月は北佐久郡と小県郡を結ぶ物流の結節点にあったため、明治以降、この一帯の経済活動の中心拠点となったことから市街地は拡大しました。そのために、街並みの姿は大きく変わりました。

■江戸時代の中山道の道筋をたどる■

■宿場北西端の桝形跡を探る■


望月宿北西側の道路: 坂を下ると街並みが見えてくる

  茂田井方面からクルマで来ると旧望月宿の街の北西の手前で下り坂にさしかかります。しかし、旧中山道の遺構は、この道から左(東)に外れて直角に曲がってから下っていく細道です。
  街道と宿駅は戦国時代の軍事的防備に準じて建設されました。つまり、街道は軍道で、軍道から砦の陣地への入り口には直角に何度も曲がる鉤の手道をつくり、そこに石垣などで桝形を築くことが原則だったのです。
  参覲交代で各藩侯が宿泊する施設を本陣と呼ぶのは、それが理由です。当初、藩主たちは本陣で野戦における指令所としての本陣を構え、宿場の出入り口の桝形に番兵を配備して防御態勢を取ることが義務づけられていました。
⇒江戸時代の街道と宿駅の基礎知識
⇒望月宿の桝形跡の絵地図
  さて、望月宿の北西端にはそういう鉤の手道と桝形が2か所あって、西から来る旅人はそこを抜けて坂を下り、望月の宿場街に入っていったのです。
  今は、中山道の遺構が鹿曲川の縁の崖斜面の棚に張り付いたような細道として残ってます。そして、その細道の両側にも、昭和レトロな家並みがあります。
  家並みを抜けると、小径は急坂の曲り道になって、幅広の自動車道に合流します。往時は階段のような石畳(石段)の鉤の手で桝形を抜けて宿場街を見おろすことになっていたのではないでしょうか


桝形跡の横に立つ馬頭観音

右から合流する小径が旧中山道の遺構。幕末までこの切通し道路はなく、丘が続いていた。

■街の中心部は谷の底■

  望月宿の街並みの詳しい観察は後に回して、今回の街歩きでは街道の往時の道筋をたどりながら、宿場が置かれた地理的環境や地形を理解することを目的としましょう。⇒中山道と望月の絵地図
  すでに述べたように、宿場街は鹿曲川がつくった谷の底にあるので、街道は街の中心部に向かって下っていきます。しかし、街並みの背後(南側)には山並みが迫っているので、宿場を通り過ぎればまた坂をのぼっていくことになります。
  街の中心部は一番下の河岸段丘にあって、街道沿いの表町通りの裏手(東側)は鹿曲川の流れと河床で、川の対岸にはこれまた幾段かの段丘の背後に山の斜面がせまっています。この斜面は御牧原台地の南西端を縁取っています。中山道は、そこから御牧原高原の南端の裾野の尾根を何筋も横切って東進し、浅科郷を通り、千曲川河岸に向かうのです。
  さて、街道の反対側、つまり街並みの西側を見ると、やはり崖のような段丘斜面が家並みの背後に迫っています。そこは、蓼科山の裾野の北端にあたります。ここは、峡谷のなか、谷間の底なのです。中山道は、信濃の高原と高原の間の谷間を縫って通じている道なのです。
  宿場街のほぼ中程までは街道は南東に向かっています。そこで、道筋はゆるやかに右に曲がって南向きになります。そして、ゆるやかな上り坂になります。望月の表町通りの街並みは全体でおよそ600メートルくらい続いています。町筋の終着点はT字路で、国道151号とぶつかるのです。
  さて、のぼり始めてから180メートルほど歩くと、T字路よりも30メートルほど手前で十字路に着きます。旧街道の道筋は、この交差点を左(東)に曲がって川に向かって下っていきます。


街道西側の段丘高台に向かう小路

■鹿曲川を渡ると長いのぼり坂■

  十字路を直角に曲がってから20メートルほどで折り返すようにふたたび直角に曲がります。ここも鉤の手が2つ続いていて、コの字型になっています。これは、街の南端の桝形跡で、ここでも急斜面を下りながら桝形を通り抜けることになります。
  道は川の流れのある谷底まで下り、そこで長坂橋を渡って、今度は急坂をのぼっていくことになります。この坂は長坂と呼ばれています。旧中山道は、長坂橋から尾根の頂部の布施まで標高差150メートルをのぼっていきます。長坂橋から尾根を越えたところの百沢集落まで2キロメートルほどの山道を歩くことになります。


道標では、中山道はここで左折する

すぐに再び左折して急坂を下る

コの字の曲りから鹿曲川へと街道は下る

  ところで、長坂橋を渡る街道コースは、じつは1742年以降に新たに造られたものです。その年は、寛保2年「戌の年」で、鹿曲川が大氾濫――「戌の満水」と呼ばれた――を起こして望月の街を破壊してしまいました。氾濫は千曲川中下流域全体におよび、水害は信州だけでなく本州各地を襲ったそうです。
  それ以前は、長坂橋よりも200メートルほど下流の中之橋を渡って鹿曲川右岸(東岸)にあった望月新町の町通りを抜けて長坂をのぼる道筋でした。左岸の望月宿――新町に対して本町と呼ばれた――の街並みもそれだけ短かったわけです。
  しかし、土石流をともなう氾濫は、望月新町を全面的に破壊し、47軒の家屋と土蔵を流失させたと記録されています。望月宿側でも流失家屋20軒とも52軒とも伝えられる大きな被害を被りました。これによって、望月新町はなくなり、街並みは西岸に移設されました。
⇒大水害後の街並み・町割り絵図
  この水害後に、望月宿は小諸藩と幕府に対して、宿場の西側にあるもっと上の河岸段丘への宿駅の移転を願い出ましたが、小諸藩や幕府にはもはや財政的余裕がなく、請願は受け入れられませんでした。
  そんな歴史をもつ望月宿は、もっとも繁栄した寛政~文化期に、宿の家屋数142軒、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠数24軒、住民数592人だったそうです。ところが、天保年間(1840年代)の人口は約360人で、旅籠が9軒、家屋数88軒となりました。
  町筋の長さは667メートル――本町554メートル、新町113メートル――宿場内の街道幅は本町が5間(9メートル)、新町が4間1尺(7.5メートル)だったということです。街通りの中程には宿場用水が流れていて、町家と街道の間には植栽をあしらった前庭が続いていました。⇒参考記事


長坂石仏群: いろいろな石仏が並んでいる

旧中山道長坂。石垣の上は県道166号。


宿場への入り口で街道は直角に曲がって枡側があった(柿の木の辺り)▲

この小径が旧中山道だった▲

左側は鹿曲川の縁の崖斜面の棚になっている▲

この道幅は往時の街道遺構を保っている▲

ここで再び桝形に突き当たることになる▲

ここにも直角に曲がる鉤の手と桝形があった▲

谷底の街に向かって下っていく街道▲

来た道を振り返ると、これだけ下ってきたことがわかる▲

表街通りの裏手(東側)は鹿曲川。西岸に宿場街がある。▲

歴史民俗資料館の背後(西)には段丘が迫っている▲

街通りの中ほどを過ぎると道は右に曲がりながらのぼっていく▲

行き過ぎてから振り返る。この先の十字路を東に曲がる。▲

コの字を描いてまた左折。ここには桝形が2つ隣り合っていた。▲

急坂を下り切ると、小路は長坂橋へと向かう▲

橋の袂には中山道特有の出梁造りの町家(昭和期の修築か)▲

鹿曲川に架けられた長坂橋(東岸からの眺め)▲

長坂はここから始まる。坂道の両側に昭和レトロな家並み。▲

長坂石仏群から坂の上り口を見おろす▲

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