長沼宿上町の宿場出入り口の姿(想像図)



  上の2つの絵図は、長沼宿上町の南端の宿間街で入り口の江戸時代の姿を想像したものです。
  上の方が、往時の宿場と街道の様子を――ドゥローンで――俯瞰したつもりで想像した絵図です。下の図は平面図(絵地図)です。《1932(昭和7)年の長沼宿の面影》の写真から100年ほど昔に戻ると、こんな姿ではなかったかという推定です。
  現在は上町(大町集落)の南端に置かれている秋葉社などは、江戸時代には桝形の石塁の上に祀られていたかもしれません。そして、石塁上にのぼるための階段もつくられたかもしれません。平和の時代には、そういうことも許されていたようです。
  一目でわかるように、上町の南端の宿場の出入り口には、石垣で覆われた土塁、すなわち桝形が構築されていました。桝形は軍事的な防衛施設です。直角に2回曲がらないと道を進むことができないようにしてあります。そうすることでて、街道方宿駅への敵の直進的な行軍を妨げる防衛設備です。
  さて、一般的に石垣土塁(石塁)は『』の形に向かい合わせに配置されていました。
  もしこの宿駅に江戸に参覲旅で向かう大名(藩主)が宿泊する場合、この桝形の前後は藩主の従者(武士)が配備されて、警戒に当たることになっていました。もっとも、元禄から享保期に、その決まりごとは緩和され、しだいに撤廃されていったようです。とはいえ本来、参覲交代で宿場に停泊する各藩は、武家諸法度によって、そうすることが義務付けられていました。
  街道と宿場は戦国時代からの軍事制度として発足したのです。したがって、藩侯の従者たちは軽武装し、鉄砲や槍、刀剣を携えていたうえに、武門の長とその直属の従者たちは騎乗していました。そのため、宿場の本陣には、武器庫や厩舎の設置が義務付けられていました。本陣(陣屋)とは、そもそも野戦での武将の作戦本部を意味したのです。
  街道宿場街は、幕府や徳川家の伝馬駅指定(命令または許可)にもとづいて、本来は何よりも軍事物資や兵員の継立て輸送のためにつくられたのです。本陣は、公用の幕府役人や朝廷の使節、参覲旅の藩主たちのための休憩停泊のための施設です。やがて、商工業や物流の発展とともに、一般ないし商用の旅客輸送へと変貌していきます。
  しかし、幕府直轄あるいは藩が統治する街道と宿場では、市場メカニズムがはたらかず、手続きが面倒なうえに輸送費用が高かったので、一般の人びとや商人はしだいに公式の街道を避けて脇道・抜け道を利用するようになっていきました。そこで、脇道や抜け道が新たな街道に指定されて、幕府や藩の統制下に組み込まれることもありました。

|  前の記事を読む  ||  次の記事を読む  |