今回は長坂橋を越えたところから、中山道の坂道をのぼりながら、家並みと石仏群を観察することにします。⇒絵地図を見る
  そこは、御牧原台地の南端の山裾で、台地と蓼科高原の北端が尾根続きに連結する丘陵を横断する山道沿いにあります。いわば緩やかな峠で、これを越えると、布施川がつくった扇状地を千曲川に向かってゆっくり下っていく旅となります。


◆長坂の上り口の家並みと石仏群◆



尾根裾の石仏群の背後から長坂のぼり口の家並みを眺める。背景は望月の街並み。

▲鹿曲川と長坂橋の対岸に望月の街並みが見える


▲谷間を流れ下ってきた沢は滝となって鹿曲川に注ぐ


▲県道166号から分岐して長坂入り口への下り坂。右端奥は望月橋。


▲ここからが傾斜がきつい上り坂。これが長坂だ。


▲美しい和風の家並みがの小さな集落


▲崖下に立つ「中山道長坂石仏群」の標柱
 昔は、音正寺からの脇道が左からここに連結していたらしい


▲いくつも馬頭観音が並ぶ。浮き彫り像もあれば、文字だけのものもある。


▲手前は馬頭観音。右手奥に道祖神が並んでいる。


▲斜面に雛壇のように石塔や石仏が並ぶ


▲石仏と石塔は花畑のなかにある


▲中央は御嶽山大権現の石塔。仏教の曼陀羅も八百万の神々も。
 ここにあるのは、石尊大権現、明動力篤之行者、神清霊神、神明霊神、大聖不動、普寛霊神、三笠山刀利、水神天など。


▲大応院跡の片隅に並ぶ石塔群。ここは神聖な場所だった。

  江戸時代には国道はもとより県道もなかったので、長坂橋から200メートルほど上流の鹿曲川河岸の崖にある蟠龍窟弁才天への参道は、長坂の上り口から右岸をのぼる小径だったようです。長坂橋の袂の道脇にある弁才天碑は、その参道の起点だったのではないかと思われます。
  今回の探索旅は、ここが出発点です。ここから、長坂石仏群まで歩いてみましょう。ほんの短い旅ですが、見どころはたくさんあります。


石垣の下の自然石の塔が弁才天

直角に近い鉤の手道を東に曲がると長坂の上りになる

  さて、長坂橋を渡ってすぐに左(北)に進むと、直角に近い鉤の手があります。右に曲がると、急な上り坂が続いていますが、これが長坂で、小径に両側に数件の家並みからなる集落があります。和風の古い造りの町家で、何やら懐かしさを誘う美しい家並みです。
  坂道を40メートルほどのぼると、左手に切通しの崖に出合います。その崖下の道沿い左側が長坂石仏群です。ここには、かつて北側から細道がやって来ていて長坂につながっていたようです。こ細道は、街道の脇道で、昔あった音正寺という寺院の境内脇から続いていたようです。この寺は、古い望月新町の上の段丘にあったのですが、明治初期に廃寺となったようです。
  石仏群の列は、崖下から中山道の急斜面に沿って20メートルほど続いています。


左から切通しの崖が迫っている。崖下に石仏群がある。

  坂の下側から石仏を見ていくと、まず馬頭観音像が5、6基ほど並んでいます。宝冠(頭巾)をかぶって合掌しながら、肩の後ろに別に腕を何本ももつ観音様の姿が浮き彫りになった石像が2基ほど見えます。隣り合って、文字を刻んだだけの石像もあります。その奥に並ぶのは双体道祖神。
  街道は左手の尾根の崖下で小さく南向きに曲がり、石仏群の脇を県道166号の真下の崖(石垣擁壁)の真下まで行って、また緩やかに左(北東方向)に曲がります。
  この小さく曲がるとこころは、街道から北東に向かって谷間の急斜面となっていて、ここにも道脇から石仏や石塔が雛壇式に並んでいます。街道を往く旅人は、これらの石仏・石塔を正面から見ることになります。手前には祖霊神の石碑が多数並び、奥には御嶽座王大権現と刻まれた高さ2メートル以上の自然石の塔が建っています。
  ここでは、神仏習合の風習のもとで多様な仏様や神様が集まって大集会を催しているようです。
  この石仏群と小径を挟んで向かい側は、その昔、真言宗当山派の寺院、大応院があった跡地です。台応院とも書く場合もあるそうです。ここは、有力な寺院でかつては密教修験の霊場だった伝えられています。この辺りの山腹に大きな堂塔伽藍がいくつも並んでいたのかもしれません。しかし今は、寺院跡の一隅に石塔群が並んでいるだけで、堂宇の遺構は見当たりません。どのような寺だったのか記録はないようです。
  目の前の崖の上は広大な御牧原の高原台地で、古代から大和王権直属の馬牧場(望月の牧)があったところで、官衙や都から派遣された役人の館もあったようです。真言密教は、大和王権の安康を鎮護する仏教となっていたので、ここは古代から密教修験の拠点があっても当然の場所です。


神仏習合の伝統による神霊を祀る石碑が並ぶ

崖下の一番奥に並ぶ石塔群

  そういう意味では、はるか古代からここは信仰の場、祈りの場だったのです。
  江戸時代に中山道と望月宿が開かれてから、ここ長坂に石仏群が祀られても当然のロケイションではあります。とはいえ、明治以降の道路整備にともなって、街道の別の場所から移されてここに集められて祀られた可能性もありそうです。


谷間の段丘は水源湿地で、小径は水浸しだった

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