室町後期から戦国時代にかけて望月氏は、鹿曲川の河畔の段丘上に領主居館を設けて、領地での集落や農耕地の開拓と統治の拠点としました。居館の背後の御牧原の尾根上には山城を築いていました。
  史料では、武田信玄の信濃攻めのさいに望月氏の当主は武田家に抗いましたが、その弟らが武田家に恭順し臣従します。ここでひとたび望月氏の宗家直系は絶えました。その頃に城光院が、居館跡地に移転再建立されたそうです。ここでは、山城跡(望月城跡)と城光院境内との位置関係を把握することにします。


◆望月氏の居館と山城◆



▲望月宿の街並みの北東の高台に位置する城跡。望月氏居館跡にある城光院の背後にある。

▲出典:宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』(2012年刊)
  上の山城城光院の位置関係を示す地図の出典は、宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』(2012年刊)、p272 です。図における方角の標示が誤っていたので、それを修正して掲載しました。
  今では、城郭跡の曲輪の縁が風化し、灌木が繁っているため、城跡から尾根下の城光院を見ることは非常に危険です。そこで、宮坂氏の労作地図で位置関係を確認してください。
  さて、今でも、向堰むこうせぎに沿って城光院前から長坂に向かう舗装道路の脇に「望月城跡」に連絡する山道の跡が遊歩コースとして残ってます。ところが、戦国時代には居館の裏から山城の主郭・本丸に往く連絡路があったそうです。それは、敵軍に居館を攻められた場合に、領主が山城に避難するための道で、領主は籠城して防衛と反撃のための戦いを指揮することになったはずです。
  今ではこの山道は残っていません。風化し灌木に覆われ、遺構も消滅してしまいました。
  城光院の寺伝が正しいとすると、武田家の侵攻によってこの居館が失われたことから、望月家門の武田家への臣従ののちに武田信繁の子息でありながら望月雅信の養子となり、領主位を継承した信永が、百沢の丘からこの居館跡に望月氏の菩提寺を移設、再建立したものと見られます。
  やがて望月信永は長篠の戦で討ち死にし、武田系の望月家は絶え、旧望月家の後胤が城主位を継承したけれども、1582年(天正10年)に織田・徳川同盟軍によって攻められ、望月城は攻囲され城主は自刃したのだとか。これで、望月家は断絶したそうです。このときには、城光院は領主館ではなくなっていたため、戦火に巻き込まれなかったのではないかと見られます。