地形と地理から望月城砦群の実相を探る その2

  今回は、望月城跡がある城山を出発して、旧望月宿の東から南にかけてぐるりと取り囲む城砦群を探索します。
  まず下の2枚の写真を見てください。上の方は、大伴神社の境内の南側(段丘上)から南東方向を撮影した風景です。城山南端は電波塔がある尾根で、旧中山道の瓜生峠を見おろす位置にあります。瓜生峠では尾根を横断するように切通して旧中山道を開削したので、ここで尾根が切れています。
  この尾根は、戦国時代までは望月トンネルの真上にある瓜生嶺まで続いていました。その瓜生嶺に小規模な城砦が築かれていたのです。これが瓜生嶺砦です。その尾根の南端に築かれたのが瓜生嶺南砦です。そこから南側は、市役所支所や天来記念館の建物で視界が遮断されてしまうので、段丘から降りて御桐谷橋おとうやばしを渡って橋鹿曲川の東岸の畔で南方を撮影しました。それが2つ目の写真です。
  この景観には、瓜生嶺南砦、松明山砦、望月支城が示されているので、地上から見た城砦群の位置関係と尾根地形を把握できると思います。




  17世紀のはじめに幕府は中山道の制定と開削建設の方針を打ち出しました。望月近隣を通る街道部分は、幕府直轄領ではなく上田藩領と小諸藩に属していました。だから、その開削建設と宿駅建設を上田藩と小諸藩に命じました。瓜生峠がある地帯については、小諸藩が担当したと見られます。
  そこでは、峠越えの街道を通すために、望月城の東側の丘陵から瓜生嶺まで続く尾根を断ち切って切通しにしました。戦国時代には、望月城の南丸から尾根伝いに瓜生嶺砦まで行く小径(軍道)があったようですが、それもなくなってしまいました。今では、稜線から中山道まで標高差10メートル近く急斜面を下ってふたたびのぼり返さなければなりません。さらに明治以降、昭和期まで、県道や国道など、この一帯の道路建設にともなって、地形は大きく変わってしまいました。
  しかも、瓜生嶺尾根と松明山砦がある西の尾根下の台地は軍事的防衛の観点から重要だと思われますが、望月総合運動場が造成されて、平坦地形になったので、往時の遺構がまったく残されていません。したがって、街の東側の尾根に築いた城砦群の地形上の位置取りや役割がどうだったのか、想像することも非常に難しいといえます。
  それでも直観的な印象を言うなら、城砦の地理的な配置は、茂田井や芦田方面からの攻撃を受けることについては――砦を築いたときには茂田井方面の領主とは同盟していたため――想定しておらず、尾根の東側の布施谷方面からの侵略・攻撃に備えた構えと見られます。布施谷の集落の背後――布瀬川東岸――にある尾根上には、尾根峰ごとに狼煙台や砦が連綿と配備されています。してみると、望月城砦群は東側の領主の勢力圏(布施、牧布施)を監視するのが目的だったのではないでしょうか。

望月城砦遺構群の地図


出典:宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』(2012年刊)p240 若干の文字を読みやすく加工してある


望月城跡がある城山尾根から瓜生嶺までの稜線。同じような標高の尾根が連なっていることがわかる。


瓜生嶺(奥)から望月総合グラウンドの東方(手前)までの稜線

画面中央部から右までが瓜生嶺南端で、凹みから右側が松明山



瓜生嶺(尾根)の南端から松明山までの稜線


松明山砦がある稜線の様子。砦跡に展望小屋がある。

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