地形と地理から望月城砦群の実相を探る その3

  望月の街の南側、協和地区に天神山と呼ばれる舌状台地の尾根が南から北に張り出しています。この台地尾根は、蓼科山北麓の尾根の先端にある丘陵です。望月小学校の辺りでは、尾根の幅が500メートルを越えますが、鹿曲川と八丁地川の合流部近く(尾崎橋東袂)では50メートルほどに細まります。しかも、国道建設で尾根は切り通されてしまいました。
  中世の城郭の跡は、尾根の先端部近く――往古には天神林あるいは高呂と呼ばれていた場所――にありますが、ここでは尾根の幅は100メートルはありそうです。望月城砦群のひとつに含まれていますが、奇妙な位置づけの砦です。室町後期から戦国時代の山城とは条件が異なっているのです。
  望月氏が大和王権直轄の馬牧場の牧監職にあった頃(平安〜鎌倉時代)には、その居館(官衙)は御牧原台地の上にあったと思われます。城下町と集落・水田などの農地はその高原台地上にあったようです。ところが、室町時代になる頃から、望月氏は台地の南西側の鹿曲川流域に集落と農耕地を開いていったものと考えられます。とはいえその時代、望月宿となるはずの地帯では、鹿曲川は流水量と水勢が普段から大きく、頻繁に増水し破壊力はすさまじく、集落と農耕地を開くことはできないほど危険だったようです。
  ところが、室町時代のはじめごろには、八丁地川と鹿曲川との合流地よりも高い地帯(上流部)では、開拓をほぼ安全に進められるようになったのです。背景には地球的規模での気候変動の波動がありそうです。
  8世紀から13世紀前半までは温暖化が進み、13世紀後半から18世紀までは寒冷化が進んだようで、14世紀からはしだいに降水量が減ってきたものと見られます。その分、信州の河川の増水頻度や破壊力はしだいに小さくなったので、人びとは恐るおそる山間や高地から河川流域に降りて、農耕地や集落に開拓を始めたようです。天神城は、その頃に城砦――防備を施した領主館――が構築されたのではないかと見られます。



▲望月城跡の二ノ丸南端から鹿曲川と八丁地川方面を望む。天神山の尾根筋は2つの川に挟まれた舌状台地だ。



【天神城の鳥観図】 出典:宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の屋代と館』(2012年刊、p274)


【天神城の縦断面図】 出典:宮坂武男 同上p274-275

  河川の増水の頻度と規模が小さくなるにしたがって、望月氏が領導する農耕地開拓と集落建設はより下流部に広がっていき、室町中期頃には、開拓の最前線は望月宿辺りの段丘上の平坦地までに降りていったようです。やがて、現城光院境内の辺りに領主居館が建てられ、その上の尾根上に山城が築かれることになります。
  望月一帯については13世紀末から14世紀前半の状況を知る史料がないようです。したがって、14世紀前半〜中葉に天神山も砦が築かれたとして、それが誰による築城かは実際のところはわかりません。私は、望月氏が御牧原台地上から鹿曲川とその支流流域に降りてきて所領の開拓を進めたと見ています。そのさいに初期の天神城を築いたのではないでしょうか。
  13〜14世紀、名門で独自の強力な騎馬軍団を率いた望月氏は――信濃上小地方の統治の要として――鎌倉幕府の御家人となって、この一帯では有力な上級の地頭領主でした。隣接する茂田井(甕)には島津分家の倉見氏が幕府から地頭領主に任じられて統治していました。ともに名門である両氏は、連携して芦田から甕、望月、牧布施にいたる地方を治めていたと見られます。

天神城砦遺構の地図


【天神城縄張り図】出典:宮坂武男 上掲 p276

  現在残っている遺構は、室町後期から戦国時代(1470〜1590年)のものだと見られます。大がかりに改修・改造され、城砦の規模も拡大しているはずです。おそらく砦の外縁は土塁で防備されていたはずです。
  15世紀になると、和田〜長窪〜望月〜佐久野沢・岩村田にかけての地域で領主層の力関係に大きな変動が起きて、望月氏の勢力は縮小したようです。望月氏は、天神城がある丘陵から追われて、鹿曲川のより下流部の河畔と御牧原台地に領地を狭めたと見られます。隣の甕の倉見氏も島津分家から北信濃の井上氏分家に統治権力を譲りました。そして力関係の変動は続き、大井氏の家門が台頭し、やがて伴野氏が取って代わり、さらに武田氏の信濃侵攻が起きました。
  望月家は武田家に臣従してその有力武将領主となり、形だけは家門の命脈を保ちます。しかし、武田家の滅亡とともに衰亡し、生き延びた一族は各地に分散していきました。徳川の直参(旗本)となった一族もあったようです。徳川家の家臣として望月城を攻略した佐久の有力領主、大井信蕃のぶしげは、上州に移封され、天神城は廃棄されることになりました。
  廃城後、城砦の曲輪群の外縁を取り巻いていた土塁は、その後の農耕地の開拓や風化浸食で崩されていったと見られます。


【天神城鳥観図カラー版】出典:宮坂武男 同上 口絵

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