今回は百沢集落を歩きます。史料を見る限り、江戸時代中期まで百沢という集落はなかったようです。本来は、御牧原から南に流れ下って、布施川に合流する沢を百沢と呼んだようです。しかし、言い伝えでは、室町後期に、この集落の上にあ高台に城光院が創建されていて、寺町ともいうべき集落があったようです。
  江戸後期に牧布施地区のなかで、百沢の流水を利用して水田などの農耕地を開くために、百沢の下流部に集落ができたようです。豊かな農村のようで、家屋は広壮で、土蔵も備えています。


◆百沢集落を歩く◆







▲集落の北側を流れる百沢: 水量豊かな灌漑用水


▲百沢集落の西端の入り口。左手の斜面に道祖神などがある。


▲明治~昭和前期に養蚕が盛んだったことを示す建築構造だ


▲緩やかな曲がり具合と坂が家並みの美しさを案出する中山道沿い


▲この住宅も出梁(出桁)造りで、江戸時代からの伝統を受け継いでいる


▲この家の造りは出梁造りで縦密格子となっていて、町家風だ


▲家並みの間を抜ける中山道はかなりの坂道だ


▲家屋が漆喰白壁となったのは昭和期で、何度も修繕したきたようだ


▲集落の東端の風景


▲かつて養蚕を営んだらしい総二階造りの古民家を後にする

  言い伝えでは、室町後期にここから百沢を少しのぼった高台に望月氏の菩提寺、城光院が創建され、七堂伽藍を備えた寺院として興隆し、周囲に寺町があったらしいが、今ではその跡地がどこかはわからない。城光院が望月宿御桐谷の旧居館跡に移転するさいに、寺町も移転し、集落はすたれてしまったのかもしれない。

◆百沢集落は信州の原風景◆


布施温泉入り口の交差点から百沢に入る

  下のグーグルマップの地図を利用して、百沢の北にある御牧原の集落と沢を確認してください。そこから南に流れ下る水流が百沢です。江戸時代末の記録では、百沢は牧布施村の分郷となっていて、百沢の下流部を開拓するために牧布施村から住民が移住したようです。


集落西端の祝言道祖神

幕末の伝統を受け継ぐ昭和前期の古民家が残る

  台地の谷間を流れ下ってきた百沢は谷の出口で東に曲がり、集落の北側を流れ、集落の東の外れで布施川に注ぎ込みます。百沢は流れが強い渓流なので、谷の壁面を石垣で補強してあります。村の西端でこの沢から用水堰で水を引いて、街道沿いに村のなかを東に流し、水田に導いています。余った水は用水堰を伸ばして布施川に落としています。
  江戸末期の記録では、百沢集落は牧布施村の分郷となっていて、百沢の下流部を開拓するために牧布施村から住民が移住したようです。牧布施村が百沢集落の母村となっていたということです。水田開拓にさいしては、灌漑用水の配分のために、百沢の治水と用水堰の開削建設がきわめて重要だったはずです。
  急流をなす百沢の水害を防ぐためにも、用水路の開削建設は不可欠だったでしょう。
  現在残っている家屋から考えると、だいたい20戸前後の村落で、中山道沿いに密集した家並みが形成されていて、家並みを観察すると、純然たる農村というよりも都邑(都市的風貌)というべき屋敷割です。


農家だと見られるが、造りが旅館のように凝っている

街道沿いの家並み景観は望月宿と比べても遜色ない

  家並みのなかには、明治から昭和前期にかけて修築または改築した総二階の広壮な古い家屋が目立ちます。江戸時代からの出梁(出桁)造りを残す民家もあります。そして、二階の屋根に風抜きの小屋根を載せたものもあります。これは、幕末から昭和前期に養蚕を営んだ農家の造りです。
  養蚕による生糸の生産と輸出は、幕末から戦後まで日本の外貨獲得=借款返済の最も主要な手段でした。幕府も明治政権も、軍備や近代工業建設のための欧米からの借款を返済するために、養蚕と生糸生産を奨励してきたのです。
  信州の勤勉な農民たちは稲作・麦作の農閑期の副業として養蚕を営んだのです。そして、主要な街道筋は通商路で、抜け目のない商人や豪農は蚕種(蚕の卵)の販売をおこなって、大きな富を築き、なかには生糸製造(工場)と外国貿易を営む大商人も現れました。
  さて、百沢の外れで中山道から東隣の村、蓬田村に向かう脇街道が分岐します。この脇往還は、岩村田まで中山道と並行し、そこから東には下仁田街道(富岡街道)となり、上州に向かいます。一方、百沢を出ると、中山道は佐久盆地を東に向かい八幡宿や塩名田宿(千曲川河畔)をめざします。


北東に向かう脇往還:この先に蓬田集落がある

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