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長野県北安曇郡白馬村
街道の古い中継拠点

  今回は、この地区をめぐり地形を眺めてみて、塩島集落についての印象を語ります。古い時代の遺構痕跡や史料が見あたらないので、やはり私の勝手な想像ですが。
  想像のほとんどは地形を見ての印象にもとづくものですから、下のグーグルマップを「地形」モードに切り換えてください。
  前回まで塩島新田を探訪していたので、では「新田」が開拓される以前の塩島の母集落はどうだったのか、そして千国街道における地位や役割はどういうものだったのか、そのことどもを知りたくなりました。


▲塩島集落のかつての中心部にある専念寺のお堂: 今はこの小さなお堂しか残されていない。背後の丘は、城郭跡がある城山。


▲国道148号を渡って塩島集落に入ったところの道(県道433号:千国北城線)
 背後に迫る丘は塩島城址がある城山

  白馬村の北部、北城は、南北に流れる姫川に松川と楠川が西側ないし北西側から流れ落ちる合流部です。複合扇状地で、姫川を底として少なくとも大きな河岸段丘が4段重なっています。松川は、白馬岳の山頂東側の斜面の降水を集めて東に流れ下っています。
  切久保から観音原までは一番上の段丘にあって、塩島新田集落はその下の段に位置し、そして塩島集落はそのまた1つ下の段丘に置かれています。塩島集落の南東端には中世に塩島城が築かれていた城山(丘)が「』」の形に横たわっています。
  この地形から推測できるのは、古代ないし太古には松川は上から2番目と3番目の段丘がある位置(新田と塩島があるところ)を流れていて、その浸食作用でしだいに南に流路を移していった。そのときには、しばしば塩島から新田にかけては沼沢地ないしは湖を形成していただろうということです。そのときに浸食と堆積作用で城山が形づくられたものと考えられます。
  そう考えるのは、新田や塩島では水田や畑の土を少し深く掘ると、大きな石がたくさん出てくるからです。石の多くは丸木を帯びていて、松川の水流で削られながらこの一帯に運ばれてきたものです。大昔、この辺りは河床だったのです。
  そしてやがて、松川の流れは城山よりも南側(現在の位置)にズレ落ちていったのではないでしょうか。してみれば、塩島から新田にいたる区域は、長い期間にわたって湿地帯となっていたかつての河床の堆積土壌で、非情に肥沃な土壌だということになります。


▲伝行山や塩島新田から塩島までは緩やかな下り斜面。
高低差は最大で10メートルほどもある。

■中世の城下町だったか■


▲境内西端に並ぶ石仏群

▲枝垂れ花桃の下に並ぶ石仏

▲お堂の内部の様子

  平安時代の後半から諸国の荘園の多くは寺社領となり、荘園所領の治安や行政は武力をもつ豪族たちが担うようになりました。彼らはやがて武士として地頭領主身分を構成することになります。
  千国庄も諏訪大社下社の所領となり、神官役を兼ねた武家が統治を担い、彼らの家臣である地頭領主たちが農村開拓を指導し、自らの所領を保有支配することになっていきました。仁科氏も有力武家の一門で、その家臣として塩島氏がこの地方に城を築いて一帯を支配していました。
  室町時代の15世紀半ば、信濃守護の小河原氏が千国庄を諏訪大社下社の所領よして安堵し、地方統治を担う地頭として城主、塩島氏の地位を認めたとする資料があるとか。
  戦国時代後期(16世紀半ば)には塩島氏は、信濃攻めを繰り広げた武田家に臣従しますが、背反を疑われて武田家によって謀殺され、その後、疑いが晴れて所領を回復されたのだとか。
  そういう物語の舞台となったのが、この塩島集落がある一帯です。


▲棟面の広がりがすごく大きい

▲集落中心部の辻の周りの風景

  その頃、暴れ川の姫川や松川、平川の反乱や水害を恐れて、人びとの多くは白馬村の東側の――岩戸山から高戸山にかけて――山の尾根や窪地に集落を形成して住んでいたようです。室町時代くらいから人びとは恐る恐る平地に降りてきて定住を試み、農地を開墾し集落を建設し始めたのでしょう。こうして塩島城下の集落も形成されたのではないでしょうか。


▲塩島城址の麓の様子:八幡神社の西側

▲その昔、ここは城下の街集落があったのかもしれない

  現在の集落は、古くても江戸末期から、だいたいは明治以降に形成されたものでしょう。
  ここの丘の上に城郭を築いて集落と耕作地の開墾を指導した有力者が、やがて地頭領主となり仁科氏に臣従するようになったのでしょう。城跡を取り巻く杉林は昭和期に地元の住民が植林したもので、それまでは落葉広葉樹が中心の雑木林でした。
  城跡がある丘の頂からは、南東に姫川、南の眼下に松川の流れを望みます。塩島城があった頃の城下の集落跡は城山の北麓にあったものと推測されますが、今は水田や荒蕪地になっていて、痕跡は見当たりません。この丘裾は現在の塩島集落よりも2~5メートルほど高い標高にあって、水難を避けられる位置にあります。
  松川と楠川の推理が利用できる肥沃な河岸段丘にあって、そのうえ北越から通じる塩の道が通る要衝であってみれば、塩島氏がここに所領を開いた理由が納得できます。
  そのころの住民は、松川の大きな氾濫や戦乱にあっては、背後の丘に避難することができました。


集落の中心部の辻脇に集められた石塔や石仏

専念寺:今はこの小さなお堂しかない

小さな境内の片隅(東端)に並ぶ石塔や石仏

広壮な古民家:民宿なのか玄関に「岳人荘」の標記

かつては旅館だったらしい古民家

長屋門造りの土蔵に屋号看板がある

大きくみごとな結構の茅葺古民家:ここも旅館だったか

北安曇地方に特有の穀物乾燥用の組枠付きの土蔵

均整の取れた結構は美しい

専念寺の北側裏手の古民家:庭園も端正だ

古民家を背景に稲穂が揺れる、美しい農村風景

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