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長野県塩尻市広丘 郷原
諏訪社と稲荷社

  郷原宿は郷原集落と堅石集落――景道建設以前にはともに奈良井川河畔にあった――という2つの集落(村落組織)からなっていました。したがって、街道沿いへの移転のときから、それぞれ別個の村の氏神を保有し、崇敬してきました。
  そのうち郷原集落の氏神が郷原神社ですが、この神社は諏訪神社と稲荷神社が合祀されていて、諏訪社稲荷社とも呼ばれていて、少しややこしいところです。


▲諏訪神社と稲荷社が合祀されている郷原神社:名称が3つもあってややこしい。


▲拝殿奥の稲荷社の本殿:
右脇に付属的な副殿があって、これが諏訪社の本殿かもしれない。

■神社の史料が見つからない■


▲鳥居前には街道の西裏道が通っている

  1821年の郷原宿大火で宿場全体が焼失したためか、郷原神社(諏訪社稲荷社)に関する歴史的記録はないようです。由緒来歴については、まったく不明です。
  それでも、この神社をめぐって毎年10月の最初の日曜日に「郷原神社例大祭」として祭礼がおこなわれ、神輿や長持ち行列の巡行が催されることから、古くから郷原集落の村氏神として崇敬されてきたことがわかります。

  私の勝手な想像としては、ここは松本藩領だったので、東山道経由でかなり古い時代に諏訪大社が勧請されて信仰されていたところに、稲荷信仰が付加されたのではないかと見ています。信州では、住民の住居敷地内に屋敷神を設置し、多くの場合に稲荷社が多く、それを氏族や村の氏神として祀ることもあったようです。
  その意味では、諏訪神社と稲荷神社の組み合わせは、さほどに異なことではありません。

  街道歩きをしながら郷原神社に行くためは、郷原交差点のひとつ北の小路を西に進むと鳥居前に出ます。鳥居前を西裏道が南北に走っています。西裏道とは、街道の西側の裏道のことです。
  旧街道には、宿場に大名や幕府高官が停泊して厳重な警備を敷くため街道の通行ができない場合に、近隣住民や一般旅行者が通る脇道を意味します。


▲本殿の右に小さな神殿が付設されている

▲入母屋造り瓦葺きの拝殿はおそらく昭和期のものだろう


石製大鳥居には「諏訪 稲荷 社」という扁額

大鳥居内側の朱鳥居に「は稲荷大明神」の扁額

稲荷社と諏訪社の合同の拝殿

本殿北脇の小祠群(神社名が記されていない)

主にサワラからなる境内鎮守の杜

本殿はどうやら稲荷社らしい

郷原神社例祭の「長持ち行列」巡行
:郷原宿を愛する会編『善光寺街道 郷原宿』から引用

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