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長野県北安曇郡白馬村神城
水源地の神社と祈りの場


▲湧水湿原の南西の小高い丘の背にある三宝荒神社の社殿: 社殿は南向きで背後の湧水を守るような配置

  11月下旬のこの日、私は姫川源流自然探勝園のなかを、親海湿原⇒ドウカク山⇒姫川水源湧水⇒荒神社という順路でめぐりました。ドウカク山の尾根裾は親海湿原と湧水地を仕切る低い丘に続いています。その丘のなかで北側の背の上に荒神社があります。


▲ドウカク山頂に置かれた石の祠

  日本では古代から大地や山、泉や川、海などの自然を神として崇敬する信仰が根づいていました。この自然信仰は、人びとの日々の暮らしのあれこれとも結びつき、さらに飛鳥時代に仏教が大和王権の信仰となり広く普及するとともに、仏教的な世界観と結びついていきました。
  姫川源流部にある水源湧水は、おそらく南神城の河岸段丘台に集落が形成され始めた地縄文時代から、生存に欠かせない水の供給源(自然の恵み)として、人びとから感謝と崇敬を集めてきたようです。この窪地湿原と湧水、それをとりまく丘陵台地は、貴重な水を確保し薪(燃料)を集める里山として、古代から人びとの感謝と尊崇を集めてきたのです。
  荒神社は煮炊きの場としての竈や水場を大切にする風習とも結びついて、竃と火の神となり、さらに仏教伝来後には仏法僧の三宝を護持する荒ぶる神として日本の仏教思想の核心にも据えられたようです。時代を遡るほど、宗教は生活の知恵と科学知識の集成でもあって、科学知識は統合され総合化されるとすれば、神仏習合は自然への理解や生きる知恵を深め体系化する方法だったと考えられます。


姫川自然探勝園の入り口付近の路傍にある石仏群▲

◆生存のよすがは祈りの場◆

  古代から水の恵みのありがたさ、生存のありがたさを感謝する場として、姫川自然探勝園は「塩の道」を行き交う人びとに知られ、参詣やら祈りの場となっていたそうです。私もいにしえの旅人の気分を想像しながら、親海湿原と湧水源をめぐりました。
  そこで、ドウカク山に登って下った道行きや湧水湿原からの帰路に森のなかで、荒神社や小さな祠、石仏群を見出し、人びとの祈りや「祈りの場」がどうであったに思いをめぐらせました。
  それについて、ここで旅の記録として報告します。


▲山頂のハルニレの根元から空を見上げた

▲陽だまりで黄葉した幼木
▲朽ちつつある倒木を跨いで歩く

◆ドウカク山をめぐる◆

  親海湿原からドウカク山の頂までは、およそ50メートルほどの標高差があります。道のりではおよそ700~800メートルで、したがって登山としてはかなり緩やかな勾配で、むしろ山歩きというべきでしょう。
  ただし遊歩道には何か所か倒木が横たわっていて、途を塞いでいます。といって、歩くのに困るほどの障害ではありません。湿原を取り囲む丘陵山林では、樹齢から見て昭和中期に植林された杉がほとんどで、そこにホウノキやハルニレ、ヤチダモなどが入り混じっています。
  山頂に近づくにつれて、高木のあいだのわずかに陽射しが射し込むところにシャクナゲが群生しています。ところどころにハルニレが屹立して、杉の群れに対抗しています。ハルニレの葉はカツラやシナノキの葉に似た形で黄葉し、わずかに梢に残っていますが、ほとんどは地面に落ちています。夏には葉を繁らせた枝を伸ばして日影をつくっているのでしょうが、初冬の今は、青空を見上げるられる空隙をもたらしています。
  さて私は山頂から西側の急斜面の獣道のような狭い道――木枠で土留めした階段状の道で安全に歩ける――を下って、親海湿原の縁を回る遊歩道に戻りました。

◆三宝荒神社に参詣する◆

  私は自然探勝園の入り口近くまで戻り、丘のあいだの遊歩道で湧水湿原を訪れ、そのあとで荒神社に向かう遊歩道で岐路に着くことにしました。
  さて、荒神社に向かう遊歩道は湧水湿原から西に向かう小径で、杉樹林のなかにカラマツが混じっている丘の尾根を往きます。丘の頂部で遊歩道の北側脇に荒神社の鳥居が立っています。そこから石組みの階段をのぼると荒神社の社殿となります。
  三宝荒神社は日本古来からの自然信仰や日常生活の場への感謝に根差す信仰が仏教文化と結びついて生まれた神を祀る社だとか。鳥居脇の説明板によると、鎌倉時代晩期(13世紀末)に甲斐源氏の裔、長澤伊勢の守長信が浅原氏の反乱に加担してこの地に潜んでいた頃、出雲大社から勧請して社を創建したそうです。
  それから270年近くを経て荒廃した社を、長澤家の子孫、信正が1556年に再興し、そこからさらに3世紀を経て幕末嘉永年間に信正の子孫によって改築されたとのこと。
  姫川源流湧水とその周囲の山林は、長澤氏ここに住み着くはるか以前、古代から近隣住民によって手厚く尊崇され荒神を祀る小さな社が営まれてきたものでしょう。長澤氏はその古くからの社に新たに正統性と威信を付け加えたのでしょう。
  説明板は、最後にこう記しています。塩の道の旅人たちが清水(湧水)でのどを潤にやって来て荒神社にも祈りをささげた、と。古代に塩の道が開削された頃から、ずっとこの湧水は近隣住民と旅人たちに清冽な水を供給し続けてきたようです。

◆森のなかの小祠と石仏群◆

  森のなかを歩いて荒神社から自然探勝園の入り口に向かう途中、小径の南側に小さな祠を見つけました。遊歩道から20メートルほど離れた樹下にある名もなき祠です。荒神社の摂社ということでしょうか。それとも独立の神を祀ったものでしょうか。
  祠にお詣りしてから、園の入り口に戻ると、遊歩道の分岐点の傍らの樹間に石仏群があるのに気がつきました。秩父や西国の観音霊場巡礼のことが刻まれた石塔もあって、その周囲に小さな観音像が並んでいます。遊歩道は往時は、塩の道佐野坂峠越えの脇往だったのか、あるいは還内山集落に連絡する道だったのでしょうか。


▲分岐点に立つ荒神社の石塔

▲道の向かい側にある石仏群
▲石塔脇に小さな観音像像や不動明王像が並ぶ


▲ドウカク山への登り道から親海湿原を見おろす



湧水湿原から荒神社に向かて緩やかにのぼる小径


杉にカラマツが混じる遊歩道兼参道


荒神社の鳥居と社殿: 社殿は丘の最上部にある


社殿の背後(北側)は湧水湿原


社殿は南向きで背後の湿原を守るような位置格好


参道を兼ねた遊歩道は東西に往く小径


木道の下の湿原:渇水期でも沼となっている


小径はやがて丘を下る。丘の麓を姫川の沢が流れている。


遊歩道両脇に並ぶ荒神社参道標柱(御影石製)


森のなかの小さな祠: 名称はわからない
蓋殿のなかに本体の祠がある

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