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長野県長野市豊野町
  豊野町豊野は古くは神代かじろ村と呼ばれていました。神代村は北国街道松代道と飯山街道が交差する場所で、飯山街道では浅野村を補完する形で相の宿でしたが、18世紀前半までは松代道ではただの通過点でした。
  2つの街道が連絡交差する要衝であったために、やがて松代道でも貨物輸送の継立て地となりました。
  神代は飯山藩と長沼藩(のちに天領)との境界に位置していたために、街道交通だけでなく、政治・行政面でも数奇な命運に置かれることになりました。
  写真中央は、観音堂の参道石段から眺めた松代道立町通り。
神代の歴史と地理

  神代村は北国街道松代道と飯山街道との交差地にあります。北国街道は幕府道中奉行の管轄下にあり、北越方面の諸藩の領主が参覲旅で利用し、幕府の公用として佐渡金山から江戸に金を送る通り道となりました。これに対して飯山街道は、もっぱら飯山藩が管轄統治するローカルな公道で、参覲旅で通る大名は飯山藩主だけでほかになく、主に商用や一般の旅人が利用する道でした。
  飯山街道では飯山藩の御用(公用)をつとめる宿場集落は替佐村、浅野村、神代村の3つだけでした。飯山街道沿いには、神代村の西に石村、南郷村、三才村がありましたが、どれも宿場ではなく、しかもこれら3つの村は長沼藩領(のちに天領)にありました。


▲旧北国街道松代道・神代宿立町通りの眺め。街道の先に見える樹林は多賀神社。手前の辻を左に入ると旧飯山街道。


▲昭和30年代の松代道(立町通り)と飯山街道の角にあった旅館「藤屋」
 【写真の出典:『豊野町誌』第2巻 p360】

▲昭和30年代の豊野、観音堂下の街並み。丘下の通り右脇が番所跡。
 【写真の出典:同上 p360】 写真では、番所の向かい側の角地が三角形に引っ込んでいる
が、これは桝形跡と見られる。旅籠「藤屋」の向かい側にも桝形があったようだ。

  神代は2つの街道が通り交差する集落でしたが、上記のように幕府との関係や街道制度そのものの位置づけが異なっていたので、それぞれの街道におけるおける地位と役割が別ものになっていました。江戸時代の前期で見ると、神代集落は飯山街道においては浅野宿を補佐する「相の宿」として本陣や脇本陣、問屋場が置かれていましたが、北国街道においてはただの通過点でしかありませんでした。
  ところが、18世紀になると各地で商工業が発達して街道の物流が飛躍的に増大したため、南隣にある北国街道の宿駅、長沼上町から神代を荷物運搬の継立て拠点としてほしいという請願が出されるようになりました。幕府の評定所は、度重なる長沼宿の訴願を受けて1739年から神代を荷物輸送の継立て地とする裁定をおこないました。つまり、北国街道では神代集落は輸送の中継地(「馬継ぎ駅」)として宿駅に準じる地位と役割を与えられたのです。

  神代集落は北国街道松代道と飯山街道が交わる場所であるということから、主に2つの街区から成り立っています。ひとつは北国街道松代道に沿った立町たつまち通りで、もう一方は飯山街道に沿った横町通りです。宿場街としての形としては、飯山街道の宿場である横町の方が先に形成されたということになります。立町は、横町つまり横向きの街並みに対して「縦」向きの街並みをなしていたことから名づけられたと見られます。⇒神代の北国街道松代道と飯山街道の絵地図
  18世紀前葉まで神代集落は、北国街道においては、長沼宿から牟礼宿に向かうただの通過点でしかなかったので、街道輸送の継立て機能はなく、送り荷の受け付けの役割はありませんでした。やがてのちに北国街道松代道での貨物輸送の継立て地として幕府から認定を受けたけれども、宿駅としての位置づけは与えられなかったため、松代道ではせいぜい「間の宿」としての役割にとどまったというのが実情だったようです。

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