八雲台一帯には古墳群があったと言われ、古い伊豆毛神社の跡地でもあり、さらに聖林寺の堂宇とその塔頭支院群があったと見られています。今そこにはごくわずかな遺構と痕跡が残されているだけで、多くの歴史の謎が凝縮しています。
  歴史の謎の解明は、もちろん私の手に負えることではありません。でも、八雲台を探訪して、はるかな過去を想像してみることはできます。高台をめぐるの光景のなかに歴史を見るヒントが埋まっているような気がします。


◆古墳、そして祈りの場の痕跡◆



▲八雲台古墳は段丘の壇上から20メートルほど下の斜面に位置している。右奥に見えるのが椅子脳神社跡の碑。


▲南東向きの斜面を下っていく農道。この丘の下に旧飯山街道、柳原寺、横町がある。
 右端の森は観音山。はるかな背景の山岳高原の中央部は根子岳・菅平高原。



▲横穴石室の開口部(南側から見た形)。石組は支柱で支えられている


▲石室内の積み石の様子(3~4段積み)。右端は石製の支柱。


▲基礎部の石が並ぶ南端部。墳丘はほとんど失われている。


▲斜面を利用して墳墓を構築してある


▲古墳の東側の斜面の様子。背景の山岳は志賀高原。


▲古墳の背後に急斜面が迫る。斜面の上は平坦地の壇上。


▲八雲台と彫られた自然石の神石。しめ縄がまかれている。


▲段丘上は周囲よりもうず高い盾状の尾根峰になっている


▲山桜の叢林となっている。春には美しく花が咲き誇る。


▲背後の山腹との間は平坦窪地になっている

■史跡 八雲台古墳■

  八雲台は豊野の横町から北に700メートルほど離れた丘陵斜面にある段丘高台です。高台壇上の面積はだいたい1ヘクタールですが、聖林寺跡辺りから緩やかな斜面が続いています。しかし、神社跡地の碑は壇上の平坦地というよりも、むしろそこに続く急斜面に設置してあります。いったい、八雲台という地名はどこからどこまでを指すのか、わからなくなりました。
  そこでここでは、柳原寺の背後の急坂から聖林寺跡まで、道路古墳を中心として半径200~300メートルの範囲の傾斜地と平坦地ないし緩斜面を含む場所を指すことにします。
  さて、八雲台古墳の脇に長野市教育委員会が設置した説明には、こう書かれています。


石室の上側から南を見た様子

市指定史跡 八雲台古墳横穴式石室
  この古墳は、八雲台と呼ばれる伊豆毛神社旧社地内あり、古来より神社の宝物庫と伝えられてきた。円墳であったが、墳丘はほとんど失われ、半壊状態の横穴式石室が南に向かって開口・露出している。
  玄室は奥幅1.5m、同前幅1.8mで、中央部がわずかに張りながら前方がやや広まる、三味線の胴部のような形をしている。
  側壁は自然石を三~四段積んだ床幅より天上幅が挟まる持ち送り構造で、正面の奥壁は一枚の鏡石となっている。天井石は、現在は奥側の一枚の実が残っている。
  玄室と羨道との仕切りは両袖式で、扇動は側壁の基礎石が四個ずつ並ぶのみで完全ではないが、長さ三m、幅九○㎝である。
  築造期は古墳時代後期にあたる六世紀末と推定され、善光寺平に現存する古墳の中では最北端に位置している。
  かつては周辺に多数の古墳があったが、いずれも破壊され消滅し、当古墳のみ半壊のまま放置されていたが、昭和二十八年(一九五三)に整備された。

  これで説明は尽くされています。が、蛇足で付け加えると、篠ノ井石川辺りから善光寺背後の地付山を経て三才、豊野までの丘陵山腹には古墳群が断続して残されています。古墳時代には、人びとは犀川などの千曲川水系の水害(破壊力)を怖れながらも、その肥沃さに魅力を感じ、季節に応じて肥沃な平坦部の開拓や開墾に挑戦していた頃合いです。千曲川流域の豊野でも、八雲台のような丘陵高台が耕作地や集落の開拓の拠点となっていたようです。
  信州各地の盆地の端、平坦部と山腹丘陵の境界一帯には、弥生時代~古墳時代の集落遺跡と墳丘が数多く残されています。長野盆地や上田盆地、佐久盆地、松本盆地では、古墳遺跡は古代から祖霊が眠る神聖な場所とあがめられ、古くから神社や寺院などが造営されてきました。


伊豆毛時者の旧社地を示す石碑

■出雲神社の結構配置は謎■

  ところがです。伊豆毛神社の旧社地神域なのですが、どこに社伝やら鳥居やらがあったのか、わかりません。石碑や神石は置かれているのですが、かつての配置を示す痕跡・遺構はまったくありません。
  八雲台の背後には山腹丘陵が何キロメートルも続いていますから、山体・山塊をご神体とするわけではありません。神社の社殿群がこの斜面や段丘壇上に築かれていたはずですが、想像の手が勝ちすら見つかりません。
  西向きだったという伝承が正しければ、出雲大社の方向を向いていたということになるでしょう。現在の伊豆毛神社は西向きなので、おそらくは八雲台の神社も西向きだったという推理は成り立ちます。ここは景観抜群の高台なので、どの方向を向いた屋代があっても、神様は大満足だったでしょう。


八雲台の高台の景観

■聖林寺の寺域でもあった■

  すでにほかの記事で報告したように、八雲台も聖林寺の寺域でした。
  柳原寺や長秀寺、正伝院など12の塔頭支院が、八雲台とそれに続く丘陵斜面の参道沿いに並んでいたようです。もちろん、その遺構や痕跡はどこにも見つかりません。ただし、柳原寺はかつて聖林寺の塔頭支院だったときの立地にかなり近いところにあったのではないかと推測できます。

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