旧北国街道松代道を北に歩くと横町を過ぎたところで観音山と呼ばれる丘の裾にいたります。 そこで街道は西に曲がり神代坂をのぼっていくことになりますが、曲がらずに直進すると観音堂の石段参道をのぼることになります。
  この観音堂は、鎌倉時代に創建された聖林寺の本尊であった千手観音を祀っています。聖林寺はその後栄枯盛衰を経て、1729年に現在地に正行寺の観音堂として再建立されました。同じ頃、やや先立って大日堂が再建されていたようです。


◆鎌倉時代の創建の観音堂を再建したか◆



▲立町通りと横町通りが出会う地点から正行寺漢音道を眺める

▲観音堂の石段参道の上から北国街道松代道を見おろす
主な参照資料: 『史跡「聖林寺跡・同五輪塔群」』 聖林寺大悲閣古跡保存会 編著


▲立町通りから観音堂を見上げる


▲観音堂への参道石段をのぼる


▲石段途中の脇に残るのは、豊野西小学校別館跡か弓道場跡か


▲石段をのぼると、段丘上の平坦地に出て、石畳の参道を往く


▲何の神様かわからないが神社の社殿。背後に六地蔵がある。


▲これが安政年間に奉納された六地蔵だろうか


▲観音堂はさらに高い壇上にあって、地盤は石垣に支えられている


▲狭い壇端から観音堂の入り口と向拝を見上げる


▲西側の段丘下から観音堂の側面(棟側)を見上げる


▲1935年の焼失後、1938年に草葺きから瓦葺きにして再建された



▲大乗妙典千部奉納供養塔は庫裏の南側、大日堂前の庭園にある


▲大日堂は、明治期に蚕室を移築して再興したという



▲大日堂脇から裏山にのぼる小径。のぼって左に三十三観音群がある。


▲尾根峰に奉納された三十三観音石仏群


▲石仏群の西端にあるのは、観音座像だと見られる


▲飯山常盤の正行寺の本堂と鐘楼

■観音堂と聖林寺との関連■

  正行寺観音堂の本尊は、本来は高さ16センチメートルほどの千手観音だそうです。この観音像は、鎌倉時代中期(弘長年間)に創建された油沢山聖林寺の本尊だったと伝えられています。
  聖林寺は、鎌倉時代の1262年(弘長2年)に、出家していた北条時頼が諸国巡行の途次、神代村に小さな千手観音像を授けたことが機縁となって、これを本尊として七堂伽藍を備えた油沢山聖林寺という大寺院が創建されたのだそうです。
  ところが1468年(応仁年間)、上の山腹にあった堤が豪雨で決壊し山津波(土石流)が起きて、寺院は壊滅してしまったのだとか。場所は、宇山の聖林寺跡よりも上の山腹高台だったと思われます。
  堤ということは、灌漑用水や治山治水のために溜め池があったわけですが、それは多くの場合、唐時代などの中国に留学した高僧・学僧たちが学んだ古代の農業土木の技術によって築かれたようです――たとえば四国の満濃池。
  つまりは真言あるいは天台の密教僧(学僧)たちが、その近隣に密教修行の拠点寺院を設けていた可能性があるというということです。


石段脇の馬頭観音。石段のぼり口にも並んでいる。

  また、正行寺観音堂の横には大日堂があります。大日如来を祀るお堂ですが、これも聖林寺にあったものをここに再興再建したもののようです。大日如来は、密教における最高の仏で宇宙を統べる如来です。そういう文脈からも、聖林寺の前に密教寺院があったのではないかと想像することができそうです。
  ともあれ、鎌倉時代、近衛家の荘園であった大田庄神代一帯の山腹・山裾丘陵で農耕地や集落の開拓が本格的に進められた頃に、北条得宗家の時頼が関与したという説話が語られるくらい、幕府の統治にとって重要な場所だったということです。そして、開拓開墾によって形成された集落群は、七堂伽藍を備えた大寺院を支えるほど豊かだったということです。
  それから半世紀以上を経た1523年(大永年間)、土中から本尊観音像が拾い出されたことから、山崩れで失われた聖林寺は由沢川左岸の宇山に再建されました。ところが、川中島の戦いの戦禍を浴びて衰微してしまい、1685年(貞享年間)に長沼の霊仙寺(霊山寺)の僧によって再興されたのだとか。このとき、千手観音像は「大悲閣」に安置されました。大悲閣とは観音像を安置した荘重な造りの堂宇のことです。しかし、観音像は戦乱のなかで甲府あるいは美濃に持ち去られてしまったとか。

■観音堂と長沼■

  やがて寺院はふたたび衰微してしまい、その後1729年(享保年間)、長沼霊仙寺の僧、俊在が現在地の丘に草堂を興して正行寺観音堂としたそうです。すでにこのときには、草堂横の大日堂は再建されていたようで、同じ年、その堂守をしていた長沼善導寺の修行僧、称西が観音堂の振興に寄与したようです。称西は、観音堂前の石塔に観音堂「中興名誉」を担う人物と刻まれています。
  ことほどさように、江戸時代には聖林寺の衣鉢を受け継ごうとして長沼の各寺院の僧たちが観音堂または大日堂の堂守として正行寺の経営や振興に努力してきました。史料では、天文2年(1737年)には観音堂の堂守が玅笑寺修行僧伯英、大日堂の堂守が単誓、宝暦2(1752)年には観音堂堂守が津野正覚寺の修行僧教円、大日堂堂守が玅笑寺修行僧の了円と記されているそうです。


観音堂は渡り廊下で庫裏に連結している

石垣の下の細道は大日堂へと導いている

  これらの僧たちの努力は報われ、観音堂(観音様)の信仰は飯山藩内はもとより水内郡、高井郡の各村に広まったようです。天保期には石灯籠の奉納者として、神代村、蟹沢村、戸狩、壁田、寒沢の団体や住人の名が残されています。
  江戸時代の末期には、神代村観音堂の春の縁日(3月17日)に奉納相撲が毎年開催され、1850年(嘉永年間)には江戸の相撲年寄の阿武松から土俵免許が認められたそうです。この頃には、神代の柳原寺が観音堂を管理・経営していました。
  1856年(安政年間)には、神代だけでなく南郷、中尾、鷲寺、小瀬の集団から六地蔵が奉納されました。幕末から明治期には、観音堂参道石段の中ほどに寺子屋があって、圓徳寺の塔頭支院、正伝寺の歴代住職が教え、丘からの眺望の美しさから「万望楼」と呼ばれたとか。


三十三観音石仏群の脇から見おろす観音堂の瓦屋根

■廃堂からの復興■

  明治維新では廃仏毀釈令によって寺院領地の政府による没収がおこなわれ、さらに祠堂整理令によって檀家をもたないお堂や祠の廃止と敷地収容が強引に進められました。これによって1874年、この観音堂もまた廃堂処分にされ敷地は政府に収容されました。これに対して日本各地で批判や再興請願が政府や県政に寄せられ、1884年に豊野観音堂の再興が許されました。
  大正期には、正行寺観音堂は尼寺となり、女性の庵主さんが住持とになりました。ところが昭和前期の1935年には火災で焼失しまい、1635年から庫裏などの再建が進められ、38年に観音堂の落慶法要がおこなわれました。ところが、1968年に大日堂の庵主が、1973年には観音堂の庵主が死去したため、正行寺は無住となってしまいました。

■裏山の三十三観音石仏群の奉納■

  観音堂の裏山(尾根峰)の一隅には、三十三観音石仏群があります。これは、西国や秩父などの観音霊場をめぐって拝礼することに代わって、ここで一度に巡礼する供養塔だということです。
  史料では、1891年(明治24年)住職、良壽和尚が中心とする近郷近在の住民有志によって奉納されたのだそうです。住職の出身地、下水内郡常盤村(現飯山市常盤)には、この観音堂と同じ寺号の正行寺――ただし現在の宗旨は浄土真宗――があるのですが、何か関連があるのでしょうか。享保年間の現在地での観音堂再建のさいに、同じ飯山藩内にある正行寺という寺号を用いたのですから。

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