粟野神社の創建時期や来歴については深い謎です。史料に登場するのは、1403年に社司が粟野神の神事に関する神祇官の奏上が天皇にあったという事件が最初だそうです。 一方、神仏習合の格式に則って神宮寺または神護寺と呼ばれる寺院が平安時代後期、伝法院流の祖、興教大師覚鎫かくばん(1095~1143年)によって開かれたという伝承記述もあるそうです。粟野神社と一体となった寺院で、真言密教修験(のちに真言密教に変わった)の拠点だったと見られます。


◆密教修験の場として開かれたか◆



▲旧石村北部の丘陵台地にある粟野神社の大きな拝殿。神楽殿(舞殿)を兼ねた床面積の大きな拝殿。


▲拝殿の背後の斜面高台に伊勢社風の蓋殿(社殿)が置かれている




▲崖のような斜面をのぼる石段参道の起点に大鳥居が立つ


▲神宮寺への参道の下にある木製の蓋殿と祠


▲石段途中から振り返ると石村集落の家並みが見える


▲拝殿前から石段の降り口(最上部)を見る


▲この地方独特の結構の拝殿で、神楽殿(舞殿)を兼ねているらしい
 東隣の穂長神社も神楽殿を兼ねる拝殿があって、その背後に本殿があるという配置になっている。このようね結構は、石村北部に特有のものらしい。


▲横から見た拝殿の結構。神楽殿と幣拝殿を融合したような造り。


▲拝殿の背後の斜面をのぼった位置に神明風様式の本殿がある


▲金属板製の大棟と千木は破格の造りになっている


▲本殿の背後の斜面から見おろした眺め


▲広い床面積の拝殿(神楽殿)の奥に本殿への石段が見える


▲鳥居下かた東に延びる境内の小径は神宮寺跡に向かう

▲釈迦堂の丘の東側にはまるで寺院のような造りの建物がある


▲真宮寺跡の遺構:草原が杉林に囲まれている


▲神宮寺跡の石碑と礎石のひとつ


▲杉木立を通して拝殿が見える


大鳥居には巨大な扁額が掲げられている

  旧石村北部の丘陵地の粟野平とよばれる高台に位置する神社です。祭神は天日方奇日方命あめのひがたくすひがたのみことだそうです。長野市上野うわのにある粟野神社は、825年に再建されたという伝承があるので、この神社から勧請して創建されたのではないでしょうか。
  史料では、1403年(応永年間)に「信濃の国の粟野神社の社司が神事を汚し祟っているので使いを派遣して中祓いをして清める」という旨の奏上が神祇官から朝廷にされたと記述されているそうです。この神社は古くは青野大明神と呼ばれていたようで、江戸時代の安永年間に村民が延喜式内の粟野神社に社号を変えたい旨を願い出て、1786年(天面年間)に許可されたそうです。
  神社境内からは直刀と鏡が出土し、社宝となっているそうです。


神宮寺の下辺りには自然石の筆塚と石塔が並ぶ

神宮寺の下辺りの麓に立つ不思議な小堂

  ところで、粟野神社社殿の東側の尾根裾に神宮寺(神護寺)跡があります。史跡の杉林にある立札説明板によると、神護寺または神宮寺と呼ばれ、神仏習合の時代、平安時代後期、伝法院流の祖にして高野山の高僧、興教大師覚鎫かくばん(1095~1143年)によって開かれたそうです。
  神仏習合に則って粟野神社と一体となった寺院で、おそらく真言密教修験の拠点だったと見られます。鎌倉時代に隆盛し、五重塔などの七堂伽藍を備えた大寺院だった可能性もあります。
  以上から、粟野(青野)神社は、遅くとも平安末期に創建されたことがわかります。密教寺院とともに創建されたとすると、大和王権や鎌倉幕府とも深い関係があったはずです。戦国時代に上杉と武田との戦乱のなかで衰微荒廃し、江戸時代はじめに領主によって長沼城内に移設再興され、その後、貞心寺となったと伝えられています。
  長秀院の寺伝では、1440年代(嘉吉年間)、下野しもつけ(栃木県)足利郡小俣村の鶏足寺から来訪した修験僧、長秀法印が粟野神社東麓に――おそらく神宮寺を訪ね、その近傍に――小堂をつくったということなので、かつて密教修験の拠点であったという推定は概ね正しいのではないでしょうか。


石垣上から氏子が奉納した石祠を見おろす

少彦名命の石祠と伊勢神宮代参講中奉納の石祠

  石村の水田と集落の本格的な開拓は、鎌倉時代の石村堰用水の開削によって始まったと見られますので、平安末期に密教寺院と粟野神社(前身)が村落建設に先立って創建されたとも考えられます。古代から数次にわたって波状的に石村~神代科の開拓はおこなわれたものの、たびたびの地滑りによって撤退を強いられたようですが、今日につながるような農村形成は鎌倉~室町時代からのものではないでしょうか。
  以上に関連して、地形から考えると、八雲台や観音山、釈迦堂、殿屋敷、粟野平などは、背後の山腹丘陵の地滑りで形成された地形を人びとが整備・改造して安定化させた高台ではないかという印象を受けます。
  旧豊野町の神社や寺院が南東向きの同じような地形の高台に建立され郷村の鎮守となったように見えるのは、このような地形の変動とそれと格闘する人間の営みがしからしめたのでしょう。
  そして、粟野神社がある丘陵高台をめぐってたときに奇妙な既視感にとらわれましたが、何やら八雲台とか観音山あたりの地形と似ているからだと気がつきました。

  さて、くにづくり神話によると、祭神である天日方奇日方命あめのひがたくすひがたのみことは、事代主命の息子で、妹が神武天皇の后となったことから、大和王権の祭祀を司る長官のひとりとなりました。彼は本来は出雲系でありながら、大和王権に統治権を委譲する役割を果たした事代主の家門に属し、なおかつ神武帝の后の兄として王権の祭政の中枢を担う神(祖霊)なのです。
  本殿の外観は伊勢社(神明社)風に似せた造りになっているのは、祭神が大和王権に親和的だからでしょう。とこおrが、本殿社はじつは蓋殿で、なかに一間流造りの社が祀られているのです。しかも大鳥居は明神社様式で、神域の造りとしては折衷的です。
  出雲大社を祀る神代村に隣接する集落の守護神が天日方奇日方命であるというのは、因縁めいているというか、いかにもこの地に似つかわしいと言えます。


本殿前から拝殿の裏手の構造を眺める

本殿蓋殿のなかに一間流造の社が収められている

  ところで、粟野神社がある丘の裾野には長秀院方面から来る参道小径が通っています。これは往古には、神宮寺の参道だったのかもしれません。
  石村南部から北西方向にのぼる神社の参道は境内の西端にいたるようになっています。この参道が県道に交差する手前に石灯籠が立っているので、この小径が神社の本来の参道だったのではないでしょうか。


長秀院方面(東側)から山裾を来る参道

前の記事に戻る || 次の記事に進む |