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長野県長野市豊野町
神代の飯山街道(横町通り)

  今回の街歩きの眼目は横町通りですが、神代宿を往く飯山街道を知るために伊豆毛神社の北脇から歩き始めることにします。飯山街道は、神社脇から石村堰用水沿いに西に向かい、柳原寺前辺りからしだいに南西向きに湾曲し、横町橋跡で堰を越えて西に折れて、横町通りに入ります。⇒神代の北国街道松代道と飯山街道の絵地図
  横町通りは観音堂下で立町通りにぶつかってT字路になり、ここで南に折れて30メートルほど進んだところで、ふたたびT字路となり、ここを西に曲がって松代通と分かれます。飯山街道はそこから西に120メートルほど進んで、油沢川(大門橋)を渡ったところで圓徳寺の門前にいたります。そこから南西に200メートルも行かないうちに旧石村に入ります。


▲伊豆毛神社の北脇を往く旧飯山街道。石の門柱と大鳥居の奥が伊豆毛神社。左端の柵の下を石村堰用水路が流れている。

▲柳原寺の南を往く旧飯山街道(東方の眺め)。道脇を石村堰が流れている。

  横町通りはだいたい220メートルほど西北西に続きます。この通りの北側に、往時、神代宿本陣、神代村庄屋、飯山藩穀留番所が並んでいました。番所は横町通りの西端にあって、番所脇で立町通りと交差していました。
  横町通りの南側には脇本陣と番所役人が居住する長屋があったそうです。長屋は穀留番所の通りを挟んで真向かいに位置していました。長屋の脇、2つの街道の交差地には石垣を施した桝形があったものと見られます。

■旧飯山街道の風景■


▲石村堰と飯山街道は緩やかに曲がって南西向きから南向きになる

▲横町の手前の石村堰と飯山街道

▲この先、横町橋を渡った通りが横町

▲道の右(北)側に神代宿本陣、左(南)側に脇本陣があった

▲旧飯山街道左脇が脇本陣跡。重厚な土蔵が昭和前期の面影を残す。

▲往時の街道沿いの町割り(敷地区画)はほとんど失われている

▲松代道との交差点から飯山街道を眺める。左端は飯山藩国道目番所跡。

  上の写真は、飯山街道横町通りの風景を東から西にたどったものです。飯山街道のコースは、伊豆毛神社の北脇から石村堰用水に沿って西向きから南向きに湾曲し、横町橋を渡って西に向きを変えると、横町通りに入ります。
  旧飯山街道横町通りは道筋はほぼ往時のまま残されていますが、道沿いの町割り遺構は、ほとんど失われています。わずかに屋敷地割り(区画)を保っているのは、道路の南側の脇本陣跡だけです。この家系が明治以降に商家を営んでいたために、敷地が残ったものと見られます。街道沿いの土蔵脇に「はちみつ」と書かれた古びた看板があります。
  横町通りの北側には江戸時代に本陣、その西隣に神代村庄屋、さらにその西隣に飯山藩穀留番所がありましたが、今は町割りの遺構は残っていないようです。
  横町通りは観音堂の下、番所跡の前で立町通り(松代道)と出会い、南に折れて(左折して)約70メートル進んで右折すると、西に向かう旧飯山街道となります。この道は旧石村、旧南郷村、三才村を経て北国街道善光寺道に連絡します。
  立町通りから飯山街道に入るT字交差点を写した左の写真では、右端の角地に旅籠「ふぢや(藤屋)」がありました。ここから西に100メートルほど進むと、渓流、油沢川と出会います。


▲立町通りを西(右)に折れて石村に向かう旧飯山街道(T字路)

▲飯山街道の右脇に圓徳寺の参道入り口の門柱が立つ

▲旧飯山街道は圓徳寺を過ぎると、まもなく旧石村に入る

■伊豆毛神社から横町へ■

  神代村は、飯山街道では東隣の浅野宿を補完する「相の宿」で、藩御用荷物の継立てや藩上級役人の休泊サーヴィスなどの業務を浅野と半月ごとの交替で担っていました。そして地理的に飯山藩の西端で長沼藩(のちに幕府天領)との境界にあるということで、本陣と脇本陣が置かれ、さらに問屋場、旅籠もありました。
  これに対して、街並みの規模も人口も商家店舗の数も神代よりずっと大きかった浅野村には、既存の史料によると本陣や脇本陣、問屋はなかったようです。相の宿の神代村にそれらが置かれたとすると、2つの村で1つの宿場をなしているので、当然といえば、当然ですが。


飯山街道北脇のフェンスの辺りが神代村庄屋跡

庄屋跡の遺構はなくなり、今は空き地駐車場

  神代宿横町の本陣と脇本陣はもっぱら飯山藩主の参覲旅や上級役人の公務旅行のための休泊所として利用されたようです。さらに飯山藩の穀留番所も置かれていました。穀留番所は、ことに凶作・飢饉のさいに藩境を越えた米など穀物の輸送を規制監視する陣屋で、旅人の人別を検問する口留番所としての枠割を担う場合もありました。
  神代村には番所や本陣・脇本陣、問屋はあったとはいえ、集落の規模は小さかったために、小さな旅籠や休憩所としての茶屋などはあったものの、村人の主要な生業は農業で商業を専門とする者はいなかったそうです。店舗は数軒で副業だったようです。都市的な集落としての機能(商業)はもっぱら浅野に集積していたようです。

  しかし、藩主が参覲旅で江戸との行き帰りするときには、神代と浅野が交替で宿泊(飲食)サーヴィスを提供したそうです。宿泊サーヴィスの番ではないときには、馬役として殿様の荷物の運搬サーヴィスを担いました。ということは、浅野には藩主に休泊サーヴィスを提供できる格式・規模の宿泊施設があったということになります。おそらく庄屋または名主の屋敷に特別の建物があったのでしょう。
  そして、浅野村には本陣・脇本陣や専門の問屋がない代わりに旅籠も含めた商家が多数あったので、有力商家や村役人が街道輸送のために人馬の手配や荷物の継立て業務を担っていたと見られます。浅野宿は古町、仲町、上町、下組、西組という集落群が集まっていて、人口も集積していました。仲町には現在に続く寺院が4つも集まっていました。鳥居川の対岸にある蟹沢村と大倉村には、店舗が並ぶ中島と橋場呼ばれる集落(街並み)があって、これらが浅野村の商業機能や財政能力を補完していたものと見られます。商業集積ではむしろ浅野よりもこちらの方が高く、宿場の中心街でした。
  また、西隣の石村は「南北両村」と呼ばれるくらいに街並みが続く規模が大きな集落だったようですが、何しろ長沼藩領(のとに天領)にあるので、飯山藩の公用にかかわる輸送や休泊サーヴィスを担うことはなかったようです。
  このように、神代は東西両隣の村々にくらべて横町と立町(西町、袋町が加わる)辺りの街区集落の規模はずっと小さかったものの、本陣や脇本陣、問屋、穀留番所陣屋などがあって、街道交通や藩行政に占める役割は大きかったということになります。
  してみると、水田を中心とする農耕地はそこそこ広大で、丘陵斜面の畑で栽培される特産物も豊かだったといえるかもしれません。宿場となる集落は、街道での公用サーヴィスを無償で提供することをもって納税(年貢)としていて、この納税分を藩への貢租から差し引いくことが認められていました。これは免許高(免許石高)と呼ばれましたが、神代が350石に対して浅野は250石(負担率は7:5)で、神代の方が上だったのです。これは、街道輸送における負担分もさることながら、番所陣屋の維持費の一定部分を現地調達していたことが原因かもしれません。
  しかしながら、浅野宿(浅野村)単独では小さいのですが、鳥居川を挟んだ蟹沢村と大倉村の都邑によって経済機能や財政を補完されていたことを考慮すると、どうなるのでしょうか。
⇒幕府の街道制度について
⇒軍事制度・交通制度としての街道と宿駅
  さて、旅籠「藤屋」の辻から西に120メートルほど進むと、圓徳寺の前にいたりますが、ここで油沢川用水と出会います。往時、圓徳寺は広大な寺領を保有していて、周囲には多くの塔頭支院があったそうです。


圓徳寺の前で街道は油沢川用水(左端)と出会う

圓徳寺参道から旧街道を眺める

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