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長野県北安曇郡白馬村
青鬼神社と棚田の風景

  青鬼集落の東西中心の北端から青鬼神社にのぼる石段参道が始まります。そこから急な石段を標高にして40メートル近くものぼると、鬱蒼とした杉森のなかの台地の壇上に社殿群が並んでいます。
  この集落が「青鬼」と呼ばれるようになった由来にかかわることですが、白馬村はもとより長野市北部の旧戸隠村、その西隣の旧鬼無里村、そこからさらに西の小谷村にかけての山間部には、古くから鬼の説話が伝えられています。この地方は。善光寺から見て西にあるので、善光寺平の人びとからは「西山地方」と呼ばれています。


▲集落の東側、標高780~820メートルほど、西に開けた谷間の南向き斜面に棚田地帯がある


▲青鬼神社は集落の北端から参道が始まる。拝殿や神楽殿などは標高810メートルほどの台地壇上に並ぶ。

  この神社もそういう伝説と深く結びついているようなのです。しかし、それを記した史料はほとんど失われてしまい、ただ人の説話として伝えられてきたようです、
  戸隠神社は、国造り神話で天照が隠れた天岩戸と結びつけられて語り伝えられています。が、その一方で、鬼伝説と深く結びついています。その伝説は、西山地方全体にかかわっているのです。
  そして、鬼伝説は、白馬村の東隣りの鬼無里村では「鬼女もみじ」の悲しい説話となり、小谷・白馬地方では「御善鬼 青鬼」の物語となっています。はるか昔、隣村で鬼が現れてさまざまな悪事をはたらくので、村人たちは困り果て、彼らは画策し鬼を捕縛して、近くにある大穴に閉じ込めました。ところが、まもなく大穴から鬼の姿が消え、この村に現れると不思議に性格が変わり、村の発展に尽力したので、人びとから「御善鬼様」と呼ばれ信仰されるようになりました。


参道石段からの集落の眺め。高台の神社は集落を見守っているようだ。

  その後、青鬼は村の鎮守神とされ、村の北方の岩戸山中腹の岩屋に祀られることになったそうです。この物語をもとに、この地区は「青鬼」、隣村は鬼を追い出したので「鬼無里」、鬼を閉じこめた大穴があったところを「戸隠」と呼ぶようになったのだとか。
  そういえば、この近隣には「岩戸山」とか「高戸山」とか、鬼が閉じ込められたり、出入りしたりしたとする扉に関連する地名がいくつかあります。


▲参道石段から集落を振り返る

▲樹間から見える家並み

  青鬼が祀られた岩屋があった中腹の台地と峰には、古くは奥の院があったといわれています。院という呼び名ですから、つまり古くは寺院があったと思われます。
  山奥の寺院と鬼が結びついていることから連想できるのは、修験道を創始した役行者です。伝説では、役行者は鬼を弟子として使っていました。密教修験を体系化し仏教思想と結びつけたのは弘法大師空海。・・・となると、岩戸山にあったのは密教修行の寺院。おそらくは真言密教の霊場ではないでしょうか。
  真言密教は、その土地土地の神々を尊崇しながら、大自然のなかでの密教を仏法修得の奥義として体系化しました――空海は中国から密教修行の奥義と技法を学んできたそうです。

  青鬼神社の拝殿には、こんな説明板が掲げられています。「青鬼神社の御神体は御善鬼大明神(御善鬼様) 平城天皇の大同元年(西暦八〇六年)岩戸山、山腹の岩屋に奥の院として祀られ毎年旧歴八月十一日吉例の祭日を以て祭式執行せり。その後安和二年(西暦九六八年)現在地に前宮としてこの社が創立を見る」と。
  806年といえば、遣唐使に学僧として随行した空海が日本に帰って来て、真言宗を創始した年です。


▲高台の境内から壇上にのぼる石段、その奥に拝殿

▲拝殿内部の様子:この背後に本殿があるのか

  往時、ここには密教修行の大きな寺院があったのではないかと想像できます。ところが、その寺院は、室町末期から戦国時代の戦乱で失われてしまったか、あるいは明治維新の神仏分離・廃仏毀釈の運動のなかで破却されてしまったのではないでしょうか。

  さて、ともあれ明治前期までには、この神社は奥の院の前宮として尊崇されるようになったそうです。ところが1882年(明治15年)の火災で前社殿が焼失し、1886年(明治19年)に青鬼神社に改称され、1893年(明治26年)に社殿が再建されました。
  毎年9月21日に行われる例大祭では火揉みの神事、灯籠揃え、花火の打ち上げなど古式を受けつぐ神事が行われてきました。なかでも「火揉みの神事」では、神聖な火を起こして神社に奉納され、氏子の家々にも燈籠として分配され、打ち上げ花火の火などに利用される神事です。


▲祖霊社と思しき社の正面

◆集落の上にある棚田◆

  神社への参拝を終えて、私は集落の東の丘陵斜面にある棚田に向かいました。農道はかなりの傾斜で、まるで登山のようです。
  このように歩くだけでも大変な斜面の森林を切り開いて、昔の人びとは灌漑用水路を築き、水田を開墾したのです。その長い年月の労苦に敬意を表したくなります。
  棚田が続くこの斜面は、南側に切れ落ちる深い谷があって、谷の沢は西に向かって流れ下っているので、視界は西に向かって開けています。したがって、西を望むと、集落の屋根の彼方に白馬連峰の眺望が広がっているのです。


▲棚田地帯の中ほどに守り神のように立つコブシの大樹

▲棚田の北に迫る尾根と山林

▲棚田地帯から西方に白馬連峰が望まれる


参道入り口:石段がここから続く

かなり古びた石段は深い森におおわれている

参道を振り返ると、茅葺古民家の家並みが見える

参道石段中ほどの鳥居

台地の壇上に社殿群が並ぶ

境内下段の西端に配置された神楽殿

壇上中央部の奥には拝殿:中に本殿があるようだ

壇上の東端にあるのは祖霊社と思われる

拝殿の妻側の様子

旅籠「丸八壱番館」の裏手の眺め

鉄橋の真下で流れ落ちる滝


強い陽射しを浴びて育つ稲穂

段差を支える石垣は砦のようだ

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