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長野県北安曇郡白馬村
古い由縁の天神様

  蕨平は南から北に張り出した山尾根の北西端にあって、南から北西に開けた窪地のような斜面にあります――国土地理院の山名検索地図でも山の名前はわかりません。北野天満宮は、この窪地の南端の台地の上で、集落全体を見渡せる場所に位置しています。
  蕨平の北隣にある大出でも、やはりこの同じ尾根の先端に北野神社があります。私の推測では、室町中期から末期にかけてこの一帯の山間部に集落と農耕地が本格的に開拓されたのではないかと見ています。もとより、縄文時代から一帯の尾根には微小な集落があったようですが。


▲集落南端の高台にある北野天満宮: 5世紀以上の来歴をもつ古い天満宮で、現存の社殿は慶応2年(1866年)に造立されたもの

▲蕨平集落の中心部から天満宮を眺望する

  30年ほど前には、この村にスキー場がありました。今では跡地の斜面の草原が、過ぎ去ったスキーブームの痕跡となっています。
  ところが、この起伏の少ない比較的に滑らかな広大な斜面は、往時は茅場だったそうです。この村落のすべての家屋が茅葺だった時代、屋根を葺く材料となる茅を村人が共同で育成し、刈り取り、乾燥させる野原がありました。それが茅場です。


▲天満宮の近くの草原に咲くノジギク

  茅とは、イネ科植物のススキ・ヨシ・チガヤ・カルカヤ、オギとかカヤツリグサ科植物のスゲなど、成長すると高さが2メートルを超えるような草類の総称です。まあ、丈の長いススキということです。秋に一面の茅の穂が風になびき輝く風景は美しいものです。
  とはいえ、斜度が10°もある尾根斜面で茅を刈り、集めて束ねて乾燥させる作業は重労働です。乾燥させた茅は、村人総出で、小さな束にして集落に運び、急勾配の屋根に葺き込み、きれいに刈り揃えて、通気性と断熱効果抜群の屋根をつくりました。日本の里人は、少なくとも900年以上にわたって、茅を育てて茅葺屋根の材料として家屋を造営してきました。

  そのような村人が集まり共同作業する茅場の丘の北の端に、茅場を見守るように南面する社殿と鳥居。古い記録よれば、室町末期の15世紀末頃(文明年間、1486年)、北野天満宮またはその前身となる神社が創建され、以来、村を鎮護する社となってきたそうです。


▲境内東端の手水舎

▲こじんまり端正な本殿(慶応2年:1866年の建立)

▲本殿の内陣は修復され、美しく保たれてている


スキー場跡の丘の上にたつ天満宮の杜

大鳥居の前はかつてのゲレンデ: もっと前には茅場だった

往時、村人は茅刈りの共同作業のために天神様の前に集った

村の中心を往く道路; 背景には天満宮の杉林

左手は神楽殿、右奥は本殿

正面から見た神楽殿

右手前が本殿、左手奥が神楽殿<

  右説明の歴史に関して、天正年間の造立は戦乱で焼失後の再建立なのか、あるいは別の場所から遷座されたのか。北隣の大出の北野社とも関係するのか、興味は尽きません。。

  手水舎の傍らに立つ説明板には、
  1486年の創立の後、1572年(天正元年)8月に社殿を造立、1836年(天保7年)に再建。時代は不明ながら、京都の北野天満宮を勧請し、この村の産土神となっている、と記されている。

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