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長野県北安曇郡白馬村
お堂と石仏群


▲集落中央部の南端にたつ小さなお堂

  野平の地形をもう少し説明しておきましょう。野平集落は、山並みと尾根に囲まれた幅200メートル、奥行き400メートルほどの谷間の台地状の斜面に位置しています。この谷の奥には、東山、柄山、物見山へと続く尾根が南北に続く障壁が横たわっています。野平の谷を削った主な水流は菅沢で、これが谷の南端を流れて姫川との合流地まで流れ下っていて、野平は河岸の北に広がる段丘台地をなしています。
  この谷間の台地丘陵の上方につくられた野平集落は、幸運なことに、ごく小さな尾根や小丘に囲まれて、沢の氾濫や土石流の危険性から巧妙に守られています。それでいて、稲作に必要な水利に必要な小さな沢は、何本かこの谷間に流れてきているのです。山岳から降りて農村を建設しようとする人びとにとって、これほど安全で魅力的な立地はほかにないでしょう。この近辺では最も古い時期に形成された村落ではないかと思われます。


▲南からの村落の入り口にあるお堂: 大棟両端にある寺紋は「三つ巴」だ

  そういう地理的条件から、500年近く前に、ここに寺院が創建されたと見られます。現在、小さの堂だけが残っています。村の神明宮がある尾根裾から集落を見わたすと、反対側の尾根の麓、家並みの南の端にお堂が見えます。南側の棚田からの村への入り口にあたる場所です。
  お堂は人びとの野平の村落への人びとの出入りを見張り見守るような位置にあるわけです。古来、人びとはこういう地点に庚申塚を設けて、「きのえさる」の年回りに祈祷や祭礼を催しました。
  祈りの場ですから、こういう場所に寺院またはもっと山奥の寺院の支院末寺としてお堂が建立されても自然なことです。
  私がお話を聞いたおばあさんは、「ずい分古くからのお寺で、村人から深く敬われていたけれど、子どもの頃から『お堂』という呼び名だけで、特別名前はなかったようだ」と語っていました。古い由緒のお堂だけれども「名もなきお堂」ということです。


お堂は菅沢の河岸段丘のさらに上の段丘の縁に立っている

  野平の集落から3キロメートル東には、前述の東山から北に屏風のように連続する峰々は、標高1200~1880メートルにも達しています。その稜線と裾花川の渓谷を挟んで5キロメートル東に一夜山から始まり北東方向に伸びる戸隠連峰があります。
  そこは、言わずと知られた古代からの密教修験の拠点です。明治維新で寺院は破壊されてしまいましたが、自然神と仏教が結びついた密教道場の寺院には、遣唐使に随行した学僧も集い、農業や機織り、医療の知識を人びとに施して、山村開拓に尽力しました。
  これらの山中には縄文時代から人びとが集落を形成していましたが、平安時代以降、奥深い山岳としては異例なほどに高度な文化を備えた村々が営まれていました。これには密教文化があずかって余りあるはずです。


▲掘り下げたどう道路から見上げる高さにある

▲お堂の草地から家並みを眺める

▲山里の集落の背後に迫る尾根

  この谷間に降りてきて村落を開拓建設した人びとは、そういう歴史と文化を背負い携えてきたのでしょう。そして他方では、小谷方面の人びととも行き来があって、千国の庄の文化からも影響を受けていたでしょう。
  小谷から鬼無里、戸隠、小川におよぶ地域は、言葉使いや言葉の抑揚も似ていて、古くから一体的な文化圏をなしてきました。そこには、越後訛りと松本訛りが合わさったような優雅な響きで、越後とか松本方面の文化や言葉が流れ込んで融合した痕跡も見られます。

  ことに寺院近傍やら集落どうしを結ぶ道の結節点・交差点、辻には、石仏群が置かれていて、これは千国街道沿いの風習・伝統にもなっています。このお堂も、そんな歴史と文化の流れを受け継いでのものでしょう。お堂の周りに並ぶのは、観音像や如来像、庚申塔、馬頭観音、大乗妙典塔、二十三夜塔などです。
  すでに何度も述べましたが、小谷から白馬にかけての村々では、各戸ごとに石仏をつくり奉納する慣習が昭和後期まで守られていました。野や道に並ぶ石仏や石塔は、住民自身がかつて奉納安置したものだということで、人びとはことのほか愛着を抱き大切にしてきたようです。


▲お堂の釣り鐘下の二十三夜塔と馬頭観音


お堂の脇にはイチョウの老古木が立っている

門番のように集落の前衛にあって、村を守っているようだ

周囲には石塔や石仏が並んでいる

改題の端に並ぶ石仏群

イチョウの根元にも石仏が肩を寄せ合っている

午前中、柔らかな陽射しを浴びる石塔や石仏

お堂の背後にも石塔や石仏が並んでいる

草地にポツンと立っているお堂

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