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長野県北安曇郡白馬村
人びとの祈りの場

  蕨平橋を南に渡って尾根懐を西にカーブしながらのぼる坂道が、蕨平集落に行く道路です。のぼりかけた道の左端を探すと、獣道けものみちのような狭い道があって、崖ともいうべきほど急峻な尾根斜面を横切るように斜めにのぼっていきます。
  それは、村の中心部にいたる近道で、樹林の縁を往く、観音堂への参道ともなっています。
  集落までは勾配のきつい坂道ですから、クルマで行く方が楽ですが、有名な石仏群を訪ねるなら、運動靴かトレッキングシューズをはいてこの細道をのぼることをおススメします。本当に近道で、思ったよりも楽に行けます。


▲西向きの高台の端にある蕨平観音堂: 往時、歴代堂守は尼僧で、村人の手習いを指導したそうだ

▲小さな観音堂で、裏庭のような境内に石仏群がある


じつに個性的な観音様や如来様などが並んでいる▲


集落の東端の尾根から西方を望む; 村の屋根の彼方に白馬村市街、その背後には八方尾根スキー場。白馬連峰は雲のなか。

  尾根台地の縁の細道なら100メートルと行かないうちに観音堂に行き着きます。何やらゆかしく懐かしい旅情が湧いてきます。
  細道を歩きながら右手(西方)に目を向けると、樹間から姫川河岸の丘に広がる水田地帯を見おろすことになります。彼方には、八方尾根スキー場が眺望できます。


▲森林浴しながら観音堂に向かう

▲目の前の段丘の上に観音堂がある

  蕨平観音堂の創建にかんする史料はないようです。けれども江戸時代中期から大正時代まで、観音堂の歴代住職は尼僧が勤め、村人に読み書き算盤の手習いを教えたのだとか。まさに寺子屋と呼ぶべき学び舎でした。ということは、この村の識字率や文化程度はかなり高かったということになります。


▲観音堂の内部の様子: たくさんの仏像が並んでいる

▲村の中心部から石垣の下を観音堂に向かう小径

◆石仏群に詣でる◆

  では石仏群をじっくり眺めてみましょう。
  石仏は、4本の大きな杉の木を取り囲む南北に細長い変則的な長方形をなすように並べられています。この長方形の長辺は、観音堂――棟入で南面向きの造りの――に対してほぼ直角をなすように東向きに配置されています。
  長方形の4辺のうち、3辺は石仏の列で縁取られていますが、南面の短辺がない形状です。北面には石仏が5体が並ぶ2メートルほどの短辺をなしているのです。東向きの長辺には30体ほどの石仏・石塔が横一列に鎮座しています。その裏側には、2列の部分も含めて30体以上が揃えられています。


▲左端の石仏は「馬頭観音」という文字が彫られている

▲前列の奥(裏側)で北面する石仏群もある

▲大きな杉木立の下の日陰に安置された石仏群

  小谷村千国郷から白馬村村の南まで、いたるところに石仏群があります。多くは塩の道に沿った場所ですが、姫川の東岸の山あいの村落にもいくつもあります。
  千国郷の古老からうかがった話では、昭和50年頃まで、村々の住民各個ごとに石仏を奉納するのが昔から長い間の習わしになっていたそうです。財ある者は、たとえば高遠石工――南進の高遠から来た熟達した石工たち――に依頼して精巧な彫りの石仏をつくり、財なき者たちは自ら彫った場合もあるのだとか。
  石仏を奉納するのは、家の当主が代替わりしたときとか、出産や死没、婚礼、庚申講の年回り、自然災害を受けたときなどとか、時折々に応じて、慣習的に定まったさまざまな場所に奉納安置したようです。

  石仏群の奥には小さな地蔵堂が置かれています。お堂のなかには石造りの地蔵様が鎮座していて、赤い頭巾と肩垂れを着せられています。その地蔵堂の前には、歴代尼僧の墓所があって、六地蔵にならったのか6基の円筒型の墓碑が並んでいます。


▲地蔵堂内に安置された死蔵様


急斜面を斜めに横切る細道は観音堂への参道となっている

参道で木の間越しに姫川と河岸段丘上の水田を見おろす

樹林から抜けるとまぶしい陽射しを受けることに

この坂を下ると細道の参道へ、右の小径は石仏群へ

右端が筆塚。立札は観音堂と筆塚の説明。

観音堂の祈祷所: 線香立てがある

ざっと見渡しただけで50以上の石仏・石塔が密集している

先端がと尖った舟形が大方の石仏の基本形になっている

列の中央で座す仏像は大日如来だろうか

観音堂から見て裏側(西側)に向いても石仏が並んでいる

西側には、小ぶりの石仏が二重の列で並んでいる

石仏群の奥には小さな地蔵堂がたっている

地蔵堂の前には観音堂歴代尼僧の墓標が並ぶ

これは合成写真です。Googleマップ「白馬村蕨平石仏群」の写真(横9020px)データを共有にしてあります。

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