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長野県北安曇郡小谷村
高原を往く街道

  北安曇郡白馬村と小谷村では、後立山連峰から東に向かって流れる水流は、いたるところ通常の川や沢のイメイジからほど遠く、まるで急斜面を落下する滝が続いているように見えます。とりわけ雪解けと梅雨とのあいだの時季には水量はこのほか多く、水流は勢いを増しています。
  激流は大きな破壊力をもっていて、つねに谷の岸壁や河床を削り崩しているようにも見えます。土石流や水流による崖崩れを防ぐために、いたるところに堰堤が施され、絶えず危険に備えているのです。


▲千国集落の西奥にある親沢中流部の堰堤滝


▲牛方宿の手前(東側)にある棚田に水が張られた

  上の写真のような堰堤滝は、この一帯に数えきれないほどあるのです。
  この堰堤滝は、千国番所がある集落から600メートルほどしか離れていません。こんな厳しい環境に古くから人びとは住み着いて村落を建設し、棚田を切り開いてきたのです。
  この沢沿いの急坂をのぼると、牛方宿がある小さな集落にたどり着きます。


▲牛方宿。茅葺屋根の軒まで積雪するのに備えた造りになっている。

■自然環境は、美しさと厳しさと■

  牛方宿は、千国の集落の一番奥から標高にして100メートル――道のりにして1.7キロメートル――ほどのぼった山腹高台(およそ標高780メートル)にあります。
  その坂道は親沢に沿っているので、親坂と呼ばれているようです。千国の南に立ちはだかる山を回り込んで栂池高原の麓に出る道です。

  江戸時代の街道――とくに峻険な難路が多い信州――では、馬で貨客を運ぶ馬方と並んで、牛で物資を運ぶ牛方と呼ばれる業種の人びとがいました。彼らは街道を旅するときに牛方宿という宿泊施設に牛とともに寝泊まりしました。
  親坂の上に牛方宿が設けられたのは、北に向かうさいには、栂池高原をやって来て急坂険路に備えて千国の庄の手前で休息を取るため、南に向かいさいには急坂を登り切った疲労を取るためだったでしょう。。
  塩は、人びとの生存に不可欠のもので、古代から昭和期まで中央王権や地方政権が流通に課税し販路を管理する専売物資でした。流通と販売の実務は、藩が高額の納税と引き換えに問屋商人に専売特許を与えていました。信州では千国街道の塩の運搬・流通について松本藩が厳格に管理していました。


▲塩を貯蔵した塩倉(復元建築)

▲牛方宿と塩倉

▲谷間に街道が通り家屋がある

▲棚田と段々畑

  千国街道(糸魚川街道)では塩の運搬は主に牛方が担っていたようです。牛方宿の近くには、塩を貯蔵した塩倉があります。千国口留番所が近いということで、塩の重量に応じて課税徴税したのでしょう。往時の塩倉は、今の建物の倍以上の容積だったとか。
  塩の流通輸送という点では、千国が松本と糸魚川の中間に位置する中継拠点だったのかもしれません。千国集落は番所を中心にした都邑で、盆と暮には大きな市――半年市――が立ち多くの人びとが参集したそうです。
  街道では、越後からは塩や魚介海藻など海産物が運び込まれていたので、半年市は殷賑をきわめたことでしょう。


▲谷間に開かれた田畑

▲街道から古民家を眺める



集落で一番奥の民家。滝の轟音が響いてくる。

激しく、しかも美しい沢の水

沢谷底の崖斜面を落下していくのだ

重厚な造りの牛方宿

牛方宿の裏手の様子

塩の道ギャラリー

県道と街道の分岐点にある古民家

塩の道は、山陰を迂回していた

街道脇の古民家

街道は山の北側の山林を往く

この道の先に栂池高原がある

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