街道の交差点としての塩尻

  1616年まで中山道の前身、中仙道は、木曾路の贄川から牛首峠を越えて三州街道の小野宿と連絡し、さらに三沢峠を越えて下諏訪宿にいたる経路でした。道のりは短かったのですが、難所険路が続いていました。
  そこで、1614年幕府は塩尻峠を越え塩尻、洗馬、本山の3つの宿駅を通る経路に変更する計画を決定しました。それから2年間の建設工事で、新たな街道は開通し、同じ読みながら名称も「中山道」と変えたとか。
  塩尻宿はそれまで、「塩の道」千国街道と三州街道との連結点でしたが、新しい街道経路の完成にともなって、きわめて重要な交通の要衝(結節点)になりました。幕府にとっても、北越方面と信濃を統制する戦略的な拠点となりました。
  新たな街道制度によって、信濃中央部の下諏訪や塩尻、松本は経済的物流の結集地となりました。