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長野県諏訪郡下諏訪町
 
 
堂宇と庭園  

▲枯山水風の庭園の奥には清浄光殿と禅堂

  名刹慈雲寺には往時、たくさんの修行僧が集まりました。彼らの宿泊施設を「旦過寮たんがりょう」と呼びました。「旦過」とは本来「一夜の宿」という意味ですが、旅の修行僧の宿を意味します。
  下諏訪には温泉が豊かに湧き出ていたので、旦過寮には浴場があって、それを「旦過の湯」と言ったそうです。現在の「旦過の湯」の前身だといえます。古くから、下諏訪は旅する者たちの宿と憩いの場だったのですねえ。
  禅宗の普及のために中国から来た高僧や中国に留学した日本の学僧たちが、温泉の薬効を利用した医療・治療を施す試みをしたかもしれません。下諏訪の名が広く知られるようになった理由のひとつが、そこにあるのかもしれません。
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■境内のなかの世界観■

  慈雲寺の境内には禅寺らしく枯山水庭園があります。白礫を敷き詰めて波紋のような筋を立てた平面のあちらこちらに岩を配置して、独特の世界観を表現しているようです。
  この、抽象化され記号化されたような世界観の表現技法は、室町時代の禅宗に起源があるようです。
  枯山水庭園の先には、真新しい八角形の清浄光殿があります。経典を納めた建物でしょうか。

  その奥には宿泊施設のような堂宇があって、背後に楼閣が建っています。
  禅寺は、各地を托鉢・行脚して修行する禅僧たちが多く離合集散する場所ですから、かつての旦過寮のように修行僧が宿泊する施設ではないかと思います。禅僧にとっては宿泊や食事も修行ですから、禅堂のようにも見えます。

  修行の場といえば、本堂の南側にも広壮な堂宇があります。庫裏を兼ねた座禅道場ではないかと思われます。

  境内にこれほどに規模が大きな建物が集まっているということは、禅宗の世界での人の行き来や離合集散が盛んだということなのでしょうか。
  修行のために互いに僧を招き合う行動スタイルに合わせて、人の建物が設営されているのではないか……これは、信州の禅寺を訪ねたときに、いつも感じることですが。

◆天圭(天桂)の松◆


▲天圭の松 戦国時代にこの寺を再興した天圭(天桂)禅師が植えたという

横に広がった枝を多数の支柱が支える

冬には雪吊りの縄で保護

  慈雲寺は寺紋のひとつが武田菱であることからもわかるように、戦国時代の武将、武田信玄ゆかりの寺院です。戦火でひとたび灰燼に帰したこの寺を武田家の大きな支援を受けて再興したのが、天桂玄長禅師で、彼は信玄の叔父だったのです。
  諏訪地方は甲斐から近く、武田家の信濃遠征の拠点となりました。武田家は人心掌握や統治のために、寺社を手厚く保護支援したのです。


境内には枯山水庭園がある

八角堂づくりの清浄光殿

これが現在の旦過寮か?

寺の本堂  大棟の寺紋は梶の葉と武田菱

広壮な建物が並ぶ

この堂宇は禅堂だろうか

晩秋の風景が似合う風雅な枝折戸の門

樹林の錦繍は裏山と溶け合う

錦繡に包まれた枝折戸

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