◆浮島と石仏の近隣をめぐる散策 その3◆

  山や川、木々や大地には神が宿るものと見なす日本人の伝統的な世界観は、いたるところに神や仏あるいは祖霊を祀る祠を建立するという文化――――生活風習――をもたらしました。まして、「諏訪大社のような有力な神社の周囲においてをや」ということになります。
  下社春宮の周囲はまさに独特の神域空間をなしているようです。


春宮の対岸、「社が丘」に登る急斜面の道路

◆暮らしに寄り添う神仏◆

  私は、人びとの生活空間の傍らに置かれた石地蔵や小さな祠を見つけては楽しんでいます。それは、この世界のあらゆる存在の価値を認め敬う「汎神論」的な世界観の現れだと思えるからです。
  そういう世界観は、人類を包摂するより大きく高い節理を信じ、自然環境を保ちながら謙虚に生活する「生き物としての知恵」ではないかと思えるのです。
  この参道は砥川の右岸に設けられた小径で、砥川の清冽な水面を眺めながらそぞろに歩くとよいでしょう。浮島よりも高いところを通る道なので、川や浮島の様子をゆっくり観察できます。

  それにしても、由緒ある神社や寺院をめぐるたびに、その境内や周囲には、かくもたくさんの神仏が配されているのか、と深い感動を覚えます。
  諏訪大社下社春宮にも、あらためて同じ感懐を深くしました。「それにつけても神仏の多さよ!」です。

  万治の石仏に参詣してから砥川沿いの参道を医王渡橋のたもとまで戻ってきて、「社が丘」から下ってくる急傾斜の道を見上げると、傍らの急斜面に鳥居が立っているのに気がつきました。
  その斜面の勾配たるや、優に40°を超えています。
  しかも、その鳥居の奥に石垣が組まれていて、その上に小さな祠があるではありませんか。
  私は身の危険を感じながら、角がすっかりすり減って丸くなった石段を登って、その社にお詣りしました。
  こんなところに社を建立するのは、相当に危険な作業だったはずです。急峻なアルプスの山頂に祠を立てた昔の修験者もかくあらんか、と思いました。


急斜面に立つ鳥居 形は諏訪社系のものとは異なるようだ

石垣の上に祀られた石の祠 社の名称は不明

春宮と浮島の中間にある「お茶処 花結び」
この辺りを散策した後に、ここで喉を潤すのも一興か。
 医王渡橋から砥川の岸沿いに春宮まで戻る小径の傍らにケヤキの大木が2本寄り添って立っています。その根方を見ると、朱塗りの小さな祠がありました【写真下】。
  小石を積み上げた土台に載せられた平べったい大石が、祠の台座になっています。そして、その四囲にはやはり小さな御柱が設えられています。
  こんなに小さな祠なのですが、信者たちはきちんと手を施し礼を尽くして祀っているのですね。まさに神はこの世の隅々に宿っている――そういう世界観・人生観が見えてきます。
  私は――むしろ無神論と言うべきような汎神論者ですが――生活空間の片隅にある小さな祠や石仏たちに、ほのぼのとした安堵と哀惜を覚えずにはおれません。
  人間の心の外に立つ世界にあまねく神の存在を認める、つまり人間の精神よりも外部世界の摂理を尊ぶ素朴な信仰心がたまらなく魅力的に感じるのです。

砥川のほとりの小径で、春宮と浮島との間にある小さな祠: 大きさは30センチメートルほど。これも春宮の摂末社で、四囲に御柱がある。
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