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長野県大町市平
 
 
城跡に築かれた集落


▲仁科神社の南側の谷間の道から集落にのぼっていく小径

  森城址は木崎湖南西岸にある、東西100メートル、南北700メートルほどの細長い丘の上にあります。この丘は、往時の空堀によって南北2つの部分に仕切られています。すでに見たように、丘の北側(南北約180メートル)は往時、本末と二ノ丸があった丘で、今そこには仁科神社と阿部神社が祀られています。
  今回は、空堀から南の集落をめぐり歩きます。仁科神社にのぼる参道の反対側に、集落に入っていく小径があります。この集落は、30年ほど前には多くの観光客で賑わう民宿や旅館が並ぶ街でした。今では住民たちが高齢化したため、大半の民宿・旅館は営業をやめているようです。
  ところが今回、民宿を再開しようとして家屋を整備・修復している若者に出会いました。「こんなに風景が素晴らしいところに使われなくなった民宿の建物があるのはもったいない」と言って、近い将来の民宿の再開をめざしているようです。この集落には、無住化して20年は経過しているように見え、老朽化して廃屋のようになった建物もありますが、手を入れれば民宿として過ぎに仕えそうな建物もあるようです。
  今後、青若者のに続く人が現れて、コロナ禍が終息したら、この村が民宿村としてよみがえってほしいものです。
  森集落は今、民宿・旅館街としては休眠状態にありますが、美しい木崎湖のレジャー基地としてはいまだに活気を見せています。湖畔の貸しボート場には夏の間、多くの観光客が訪れています。


木崎湖南西岸の風景: 釣りやボート遊びなどのレジャー施設が並んでいる

■盛運を過ぎた民宿街■


▲集落の北の入り口に立つ道祖神

◆城跡の遺構と現在の集落◆

  仁科神社の参道登り口脇にある「戦国時代仁科城跡付近見取図」によると、森集落は、往時の三の丸や「かまたきば」、「堂屋敷」があった曲輪群があった場所に形成されたものです。
  上記の見取図は、戦国時代の森城の曲輪群のおおまかな配置を示す地図です。この地図は、木崎湖から流れ出る水路の流れを船場に設けた堰で閉鎖して湖の水位を最大限に上げた場合、水上に半島状に浮かぶ丘陵の形を表しています。
  この地図によれば、丘陵の北端の本丸と二ノ丸は、水路によって南側に位置する三ノ丸や「かまたきば」から仕切られています。これは、水見の水位を最も高くした場合の地形で、この水路は平時には空堀だったそうです。
  この空堀は今、南北の丘尾根の背と比べると3メートルほど低い小さな谷間として残っています。けれども、堀や水路を含むほかの防御施設は痕跡すらなくなっています。


▲小径に沿って建物が並ぶ民宿街

▲修復された古い土蔵

  谷間から集落にのぼっていく小径や集落の中央を南北に往来する小径は、古い城郭の連絡路の遺構をもとにして江戸時代以降に建設された道路がもとになっていると思われます。
  戦国時代に城郭があった頃には、軍事的防御のために、丘の上の集落を往く小径は直角に曲がって鉤の手になっていたり、筋違いになっていたりしていたようです。ところが、時代を下るにしたがって曲がり角は丸みを帯びていったと考えられます。
  空堀から集落に向かう畑や草原のなかの小径は、戦国時代には東西あるいは南北に向かっていて、曲り角や辻は直角だったと推測されますが、今はだいぶ斜めになっていて、曲がり角も鈍角で丸みを帯びています。直角の曲がり角は桝形だったのではないでしょうか。
  今、集落を南北に往来する小径は、戦国時代の城郭の各廓や部署を結ぶ連絡路の遺構の上にあるようです。江戸時代の集落開拓で建設された道筋をそのまま踏襲しながら、明治以降に少しずつ変形してきたものと見られます。
  さて、その小径の集落の北端から30メートルほど南に進んだところの東脇に、300坪ほどの広さの草地があります。深い草のなかに「遠藤惣本家屋敷跡」と刻まれた石碑が立っています。ここには、かつて屋敷があったと思われます。
  城郭があった頃に森家に仕えた家臣(遠藤家)の子孫が江戸時代に構えた屋敷がここにあったのかもしれません。遠藤家は戦国時代には侍長屋に住んでいて、城郭が破却された後ももこの地に残り、帰農して田畑を開拓したのかもしれません。
  あるいは森城や仁科氏とは無関係で、別の地からここに開拓に来て定着し、遠藤一族の祖となったのかもしれません。


▲屋敷跡に復元というよりも改築したなまこ壁の土蔵

▲曲がり角が丸くなった筋違い小路

  この道は、四つ辻の手前で筋違いのように東側に20メートルほどズレています。城郭があった頃には、ここも鉤の手が連続して、敵軍の侵入を阻む形になっていたのでしょう。これらは、城郭時代には桝形だったかもしれません。

◆湖面レジャー施設◆

  そこから20メートルほど南で四つ辻に出会います。そこを左折して東に向かうことにしました。この先には、湖畔を南北に往来する小径があって、湖面の南東端にはボート用桟橋(船着き場)など湖畔のレジャー施設があります。ここでは岸辺の貸しボート屋から小舟を借りて湖面に漕ぎ出ることができます。
  見たところ、ボート屋でワカサギ用の釣り具を借りて湖に漕ぎ出し、湖面をめぐりながら釣を楽しむ人が多いようです。


▲夏の木崎湖: 畔から北の眺望

  30年ほど前、近隣の民宿街び活気に満ちていた頃には、この一帯には今よりはるかに多くの湖水レジャー施設があったようですが、高齢化や人口減少とともに宿泊客が減り、それにともなってレジャー施設も減少したものと見られます。
  観光客も民宿も相当に減ってしまいましたが、その分、落ち着いて閑寂な環境のなかで高原の湖水地方の美しい風景をゆったり楽しむことができるようになりました。
  それに、民宿街が観光客で賑わっていた頃には、地元の人たちも観光客も、稼ぐことや、忙しく流行りの遊びを楽しむことばかりに気が向いていて、この地方独特の歴史や文化について考えたり調べたりする心の余裕がなかったようです。史跡や遺構について地元の教育委員会や観光協会が調査し、説明板を掲げることもめったになかった記憶しています。
  忙しく画一的な観光旅行のスケデュールをこなすことにばかり気が向いていました。

◆地元の歴史と文化を知ろう◆

  今はその頃よりも少し寂しくなりましたが、この地方の歴史や文化に対する関心が高まり、そういう情報を求める住民や観光客が増えてきました。そういう情報や文化に触れることが観光の付加価値となってきています。
  その意味では、私たちは生活者としても観光客(トゥーリスト)としても成長したのです。

  やがて今後、国内的にも国際的にもコロナ禍での旅行や観光の制限が解除されていくと、外国からの観光客を中心に地元の歴史や文化、農業や行事などを体験的に知ろうとするトゥーリズムが優勢になっていくでしょう。そのときに備えて、私たちはこの地の歴史や文化に関する知識を蓄えていきたいものです。


空堀跡の通さな谷間(窪地)からゆるやかにのぼる坂道

広大な庭や畑に囲まれて民宿が並ぶ集落の小径を南に歩く

広大な屋敷跡には夏草が繁茂している: 奥になまこ壁の土蔵がある

「遠藤惣本家屋敷跡」と刻まれた石碑: 城の家臣の子孫が構えた屋敷跡か?

振り返ると、広壮な民宿家屋群、その奥に仁科神社の杜が見える

民宿だったと思しき広壮な建物が並ぶ

路傍に立つ供養塔: 「奉納 百番供養」と刻まれている

古くは、城郭内の「筋違い鉤の手辻」だったであろう曲がり角

東西にのびる小径: 戦国時代までは狭い堀だったと思われる

1軒だけ残っている茅葺造り(今はトタン葺)の古民家

期先の南西岸を往く小径: 道の右脇には民宿や保養施設があったようだ

湖の対岸に尾根を延ばす居谷里山: 湖面にはレジャーボートが浮かぶ

湖西畔レジャー施設や旅館の背景に見えるのは小熊山系の尾根

湖岸を北に向かう小径: 湖畔に並ぶ保養・宿泊施設

この先にレジャーボートの船着き場(桟橋)が並ぶ

カヤックやスタンディング・パドルボード用の桟橋(船着き場)

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