▲大鳥居をくぐると自然石の石畳参道となる: 杉並木の向こうに境内壇上の社殿が見える


▲大鳥居の扁額にある社号は「上諏訪神社」。諏訪社に「上」がつく珍しい社号だ。


▲社務所前の広場は巡回バス停となっている

▲大鳥居の北側の千国街道: 神社前の草地はかつて湖畔湿原だった

▲鳥居前を南に向かう千国街道: 左手には湖面が広がる


▲段丘上の境内まで続く杉並木の山道

▲鳥居の北隣が社務所

▲石段から鳥居方向を振り返る


▲石段の上は神楽殿前の境内広場

▲改題広場からさらに石段をのぼった壇上に拝殿がある

▲神楽殿前から境内広場を見渡す:鬱蒼たる杉樹林に取り巻かれている

▲広壮な神楽殿

◆西海ノ口にある上諏訪社◆


鳥居の前(南東側)には木崎湖の湖面が広がる

  西湖畔を往く千国街道は上諏訪神社の大鳥居前を通っています。鳥居の扁額には「上諏訪神社」という社号が記されています。諏訪神社に「上」がつく変わった社号です。
  これは、湖の対岸、ここから南南西方向の稲尾という集落にもうひとつ諏訪神社があって、「下諏訪神社」という社号が掲げられています。つまり、二社で一対をなしているのです。


杉並木下の山道から大鳥居を振り返る

湖岸段丘をのぼっていく参道

  私は、「上下」一対の諏訪社が建立された理由を勝手に想像してみました。木崎湖が冬季に結氷して、湖面に氷の亀裂が走ったのを見て、それを神の通り道と見なして吉良津の両端の湖岸に上下一対の諏訪社を勧請・建立したのへないか、と。
  諏訪湖にも対岸にそれぞれ上社と下社が2つずつあって、二組のペアをなしています。そして、古代から真冬には湖面に、上社と下社を結ぶように神渡みわたりと呼ばれる氷の亀裂が走っていました。
  湖面に張った氷が厚みを増していくうちに膨張して、結氷の割れ目がせり上がって、あたかも神の通り道のような姿になるのです。その亀裂の岸辺の到達点にそれぞれ上社と下社を設けたのです。木崎湖畔でも、それに倣ったのではないかというわけです。


境内広場から壇上の社殿を見上げる

  西海ノ口の上諏訪社となったのは、千国街道としては脇往還沿いのの稲尾よりも早くから集落が開けていて、神社の勧請建立も早かったからではないか、ろんな風に想像しています。
  というように、この諏訪神社の前には木崎湖の美しい水面が広がっています。が、古い時代には、拝殿と本殿がある段丘の最上部近くまで湖面の水位が高かったのではないかと思われます。杉の杜もなかった時代には、神社の目の前に満々と水を湛えた湖を眺めることができたのではないでしょうか。


拝殿の側面: 本殿は蓋屋のなかで見えない

  神社の参道を囲む杉並木の――とサワラなど――なかで最も古いものは、樹齢が400年になるかならないかくらいです。境内を取り巻く杉樹林は昭和期に植林されたもののようです。
  この杉樹林の背後(西側)には林道が通っていますが、江戸時代前期までの古い千国街道の跡ではないかと推測されます。青木湖や中綱湖と同様、木崎湖の西岸の尾根山腹は急傾斜です。街道を開削するうえでは急斜面は困難ですが、湖水による水害を避けるためには、何よりも湖面とのの高度差設けることが必要だたために、本街道がここに開かれたのです。
  湖の東岸はおそらく室町時代以前は遠浅の水面で、その岸辺は広大な湿地帯をなしていたようです。したがって、初期には尾根の背に脇街道が開削されたものと思われます。そして、西岸の尾根の稜線にも最も古い時代の道の跡があります。

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