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長野県大町市
 
 
塩の道を往く

  塩の道(千国街道)は、大町山岳博物館から5キロメートルほど南下したところで「社」という古から開けた集落に入ります。今では過疎化が進んだ小さな集落ですが、往古にはいくつもの街集落が集まってたのではないかと思われます。


▲大町市社地区から西方、高瀬川の谷間を眺める。北アルプスは雲に隠れている。

▲塩の道の標識(社地区):東山の麓の丘陵を往く道

  東山山麓の街道から西を眺めると、北アルプスの麓を南北に続く高瀬川流域の谷間を眺めることができます。高瀬川が北アルプス山麓と東山とのあいだにつくり出した大峡谷です。国道147号ならびに県道51号沿いに家並みや田園が続いています。
  北アルプスの膨大な降水を集める高瀬川は暴れ川で、大昔から大きな氾濫や土石流を繰り返してきたので、ここ大町市南部では、人びとは高瀬川沿いの低地を避けて、昭和期まで山麓丘陵を往く塩の道沿いに集落が形成され、耕作地が開かれてきました。社地区は古くからの豊かな村落が連なるところです。社から1キロメートルほど南に往くと、仁科神明宮がある宮本集落があります。

■東山山麓の道■


▲街道脇に並ぶ石仏

  上記の理由で、大町では東山山麓に古くからの村落が並び、寺院や神社が多いのです。そういう古い集落を結んで塩の道は開かれ、また塩の道に沿って開拓が進み、村落や耕地が刑されてきたのです。
  江戸時代に幕府や各藩が街道制度を整備しましたが、山岳地では幅2尺あるかないかの険路、隘路が多く、明治以降に激しい起伏は均され拡幅されたものの、いまだに街道は上り下りや屈曲に富んでいます。

  松本から南北安曇野地方には、泉小太郎(犀竜小太郎)の伝説が残されています。その伝説から私は天地創造の物語を空想しました。根拠は安曇野や大町の地形です。
  遥か古代、たぶん縄文初期よりも前、アルプスをはじめとする近隣の山岳から水を集めて、松本や安曇野は巨大な湖がいくつもあって、やがて提となっていた丘陵や尾根が決壊して高瀬川の下流部や犀川ができた、というストーリーです。
  かつての湖底はそのまま、高瀬川や梓川などの暴れ川の河川敷となり、それらの川は蛇行しながら大地に浸食作用をおよぼし、さらにたびたび氾濫し、現在の南北安曇野の盆地平原を形成したのではないか、と思うのです。
  巨大な湖水の名残りが、大町市北部にある仁科三湖、すなわち木崎湖、中綱湖、青木湖で、水路で務図ついているこれらの湖は、大決壊の後、ひとつの広大な湖をなしていたのではないでしょうか。
  そして、はじめのうちは東山山麓にぶつかっていた高瀬川が浸食作用でしだいに西側に移っていき、大町市の南部に向かってゆるやかに湾曲する流れになっていったのが、平安時代から鎌倉時代にかけての頃だったのではないか。とはいえ、江戸時代までは、高瀬川の周りには何本もの分流が流れていたものと考えられます。
  すると、北大町は高瀬川による破壊をあまり受けない河岸段丘上の丘陵となったので、集落建設や耕地開拓が始まり――若一王子神社(その起源となった社)がつくられた――、段丘の最上部となった東山山麓の丘陵地に塩の道が開かれ、その周域に集落と耕地が形成されていった・・・。


▲秋葉神社下から閏田集落への小径

  社地区の北では高瀬川が山塊に衝突するところですから、浸食が強烈で標高差20メートルほどの断崖地形をなしていて、緩やかな斜面はありません。その南では高瀬川が再開にぶつかった反動でやや西に大曲するため、扇状地のような丘陵斜面がつくられ、そこに社集落と農耕地が開かれたのではないでしょうか。


▲石垣のあいだに大日堂の参道小径がある

  社地区には古くは舘ノ内とか古町と呼ばれた地籍もあるとか。ここには閏田と曽根原と集落名もあって、その南には池田町の北原、宮本、さらに南には堀ノ内という地籍名があります。平安時代から室町末期までは、古代ないし中世風の城下町や都邑がいくつかあったとも考えられます。そして、この一帯には数多くの神社や寺院があって、池田町と旧八坂村も含めて、ここから霊松寺がある辺りまでは密教修行の地となっていたかもしれません。


街道は舗装されているが、上り下りや屈曲に富んでいる

山陰を回り込んで道は往く

社(閏田)集落から西を望む。高瀬川の谷間が見える。

街道沿いの農家の土蔵

東山山麓を南に向かう塩の道

佐々屋幾神社の石鳥居:参道は街道と交差する

秋葉神社下の街道:右手の道は社閏田集落に通ずる

秋葉神社の参道は閏田集落中心部に続く

白壁土蔵群:昭和前期までは相当に豊かな集落だったようだ

村落の中心部の古民家群
曽根原集落を南に向かう街道。辻を右折すれば浄蓮寺にいたる。

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