室町後期〜戦国時代の森城

  この絵図は、室町時代後期から戦国時代にかけての森城の鳥観図です。仁科神社の入り口にある説明板の絵図を参考にして、往時の木崎湖面・湖畔の様子を想像再現して描きました。
  絵図の見方について説明しておきます。
  濃い青(藍色)の部分は、現在の木崎湖の水面域を示しています。したがって、濃い青と水色との境界が、現在の湖岸線です。戦国時代の湖岸線は、濃い青との境界よりも水色のなかに入った位置にあったと思われます。そして、森城は、木崎湖南西岸から岬のように北に突き出した丘陵に構築されています。
  森城は湖畔の水城で、現在の農具川に当たる水路の出口近くに堤防や堰を設け、湖から流れ出る水量を調整できるようにしてあったそうです。したがって、堰を閉鎖すれば湖の水位を上昇させ、本丸・二ノ丸・三の丸など城郭の南側に開削された谷間や溝に水を満たして、防御用の堀とすることができました。絵図では、このときの状態を描いています。
  往時、堰を閉めて湖面の推移を2〜3メートルほど上げることができたものと想定しています。現在の水位と比べると、6メートル近く水位が上昇したのではないでしょうか。往時は森城の丘陵は、現在よりも3メートル近く高かったのではないかと推定しています。浸食や、現在の集落の西側の窪地・低湿地の干拓や埋め立てによって、丘陵あるいは城郭土塁の土砂が削られた可能性もあると私は見ています。

  森城は、鎌倉時代後期から仁科家が仁科三湖から北に向かって開拓を進め、農耕地や集落を開き、領地版図を拡大していくための拠点となっていたようです。往古から北越との連絡路として塩の道(糸魚川街道)が開削されていたことが、導きの糸となったのではないでしょうか。塩の道の原型は、大和王権の影響力が北安曇におよぶ頃(6〜8世紀)にはつくられていたようです。
  仁科三湖の周域や姫川流域の湿原地帯には縄文時代あるいは弥生ないし古墳時代から集落が存在していたので、往古から仁科郷と安曇野北端(今の小谷・白馬村方面)との人びとの往来はあったということになります。ことに日本海沿岸で生産される塩は生活に不可欠なもので、海産物の内陸部への輸送路を掌握することは、比較的に領地の小さな仁科家にとっては、決定的に重要な生き残り戦略の手段となったと見られています。
  さて、「せんば」という地名は船場つまり船着き場を意味したと思われます。木崎湖の湖面や農具川の舟運は、高瀬川とも連絡していたかもしれません。ただし、1年のうち、激流が多い高瀬川を水運経路として利用できる時期は短かったでしょうが。それも、仁科家の生存戦略あるいは京洛方面との連絡にとっては重要な契機だったと見られます。
  森城の西側の低湿地は、現在では、広大な水田地帯になっています――今でも小さな沼沢湿地として樹林のなかに残っています。戦国時代以降、江戸時代はじめまで小熊山系から流れ下る多くの沢による堆積によって窪地に土砂がたまり、この湿地帯の水位は相当程度に低くなっていたようです。それでも、この一帯が干拓・開拓されて水田になるのは、明治以降だったのではないでしょうか。水路を開削して低湿地の水を湖に排出することから始まったのでしょう。

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