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長野県大町市平
 
  木崎湖の北半分とその湖岸は海ノ口と呼ばれる地区です。ここで、千国街道は東西に分岐し、西岸の道が本道で陶原の道が脇往還となります。
  湖の東西両岸に古くから集落が開かれていたようです。旅のコースは、まず西岸の本街道に沿って南岸まで進み、次に東岸の脇往還を歩くことにします。
  写真:木崎湖北西岸の集落(5月末)

 
木崎湖北西岸の集落


木崎湖北畔の水田地帯: 非耕作地が増えてきた▲

  大町市平海ノ口の木崎湖北岸にある水田地帯は、往時は湖畔湿原でした。鎌倉時代以降、湖面の水位は徐々に低下してきたようですが、ことに江戸末期からは水位の低下が進んだようです。それにともなって、千国街道の道筋の標高も下がってきたといわれています。幕末には街道は、海ノ口西側の不動尊と伊勢社の脇を抜けて、ほぼそのままの標高で木崎湖の南西岸までいたったようです。
  とくにPOW WOWキャンプ場の辺りから街道小径は標高を下げ、仁科氏森城跡や阿部神社の近くでは湖面から1~2メートルしか高くなっていません。古老によると、昭和前期までは、街道の標高は今より少なくとも10メートルほどは高いところを通っていたそうです。

  今回訪ねた海ノ口の北西部は、古い地籍では――千国街道に沿って北から――北村、宮沢、西海ノ口という3つの集落からなっている地区です。金沢不動尊と伊勢社の一帯の地籍がが宮沢、その北側が北村、神諏訪社の近くが西海ノ口だと見られます。


▲海ノ口の北西端(北村地籍)の集落の眺め: 現在の千国街道は家並みのあいだを湖畔まで降りてくる

▲昔の街道の面影を残す風景: 茅葺古民家の脇の山腹をのぼる街道小径(宮沢地籍)

■木崎湖北西岸の集落■


▲街道沿いに残る茅葺造りの古民家

▲民宿だったと思しき古民家

  農具川沿いに南進してきた千国街道は、海ノ口北西端の集落に下る手前で曲り、西の尾根山腹の麓に寄ります。そこから、木崎湖面を見おろしながら湖畔に降りていきます。
  往時の街道は、坂道を下りきらずに山腹を南進する小径を往くものだったようです。屈曲や起伏が激しいので、明治以降に、水田開発や観光業の振興のために湖畔に下る道を建設し、道沿いに集落の家並みを移したのかもしれません。あるいは、跡取り息子は山腹の古くからの家屋を相続し、次男三男たちが湖畔の道沿いに新たな所帯と住居を構えたのかもしれません。
  そうやって、世代や時代を下るごとに山腹の高いところから低い湖畔に集落が降りてきたのでしょう。それとともに街道も低いところに降りてきたようです。


▲道脇に立つ「千国街道」の標柱


▲端正に補修されている茅葺古民家

  木崎湖は、仁科三湖のなかで最も観光開発が進んだところで、湖岸やボートでのブラックバスやマス釣り、カヌーやセイル、湖畔樹林でのキャンプ、北岸でのハンググライダーなど、きわめて多様です。やはり、大町市街地に一番近いロケイションだからでしょうか。
  湖の南岸の集落は、仁科氏の森城の城下町として鎌倉時代から栄えていたのですが、昭和期には仁科盆地・仁科三湖で最も有力な民宿街でした。そういう観光客宿泊の拠点があったため、木崎湖は高原の湖として都市部の多くの人びとを引き寄せてきたようです。
  それに比べて、北西岸の集落は昔からの農村の伝統的な暮らしや営みを守ってきた場所だと言えます。

  さて、湖畔とあまり変わらない高さまで下ってきた道路は三叉路分岐点に出会います。そこには、この集落でたった1軒の茅葺屋根のままの古民家があります。その古民家の東側の道は、そのまま湖畔に向かって低い位置を往きます。もうひとつの山腹に向かってのぼっていく道が千国街道だということです。


▲路傍の道祖神と道案内標識


▲伊勢社にのぼる石段参道

  幕末までの古い千国街道は、湖畔の高さまで降りないで、10~20メートル以上高いところを起伏し長りくねりながら、南進していたようです。しかし、今はその道の痕跡はありません。民家の敷地になったり、草原に埋もれたり、開墾されて畑になったりしてしまったようです。
  私は山裾をのぼっていく小径を選びました。小径の西側は急傾斜の山腹斜面で、深い山林となっています。分岐から170メートルほど進むと、小径の西傍らに茅葺の小さなお堂があります。屋根が朽ちかけた古いお堂です。
  そこで運よく、近くの段々畑で草取りをしていたお婆さんにお話をうかがうことができました。老婆によると、そのお堂は不動尊なのだそうです。40年ほど前までは村の集会場となっていて、お堂の行事でにぎわったそうです。しかし、過疎化と高齢化のなかで、お堂は使われなくなり、近くの集落にいた茅葺屋根職人が30年ほど前に亡くなってからは、茅葺屋根の修繕や補修はしていないのだそうです。
  お堂の南西側、森のなかには伊勢社があります。伊勢社は、山腹の丘陵斜面に位置する小さな台地(壇)の上にあって、台地の道路側の法面は石垣で支えられています。
  現在の千国街道から分かれて、その石垣の脇を山腹に沿って行く林道がおそらく往時の街道の跡だと思われます。林道の谷側に分岐して、等高線と平行に樹林のなかを往ったであろう獣道のような痕跡がありますが、これが往時の塩の道だったのではないかと推測されます。


▲伊勢社前で街道は下り坂となる


▲段丘上から街道小径を見おろす

  伊勢社下から現在の千国街道に戻ってさらに南に歩くと、小径は下り坂となり、先ほど分岐で別れた湖畔の道に合流します。そのまま50メートルほど歩くと上諏訪神社の鳥居前に出ます。   この神社の名前は「諏訪神社の上社」という意味らしいです。というのも、湖対岸の稲尾集落に下諏訪神社があるからです。

集落に降りていく街道・ 坂の途中で振り返る

何やら郷愁を誘う懐かしい古民家の家並み風景

千国街道はこんな風に湖岸に向けて下っている

湖畔近くの分岐点: 右の上り坂が千国街道(この辺から南が宮沢地籍か))

茅葺のままの古民家はひとつだけ残っている

不動尊脇をのぼる街道小径

伊勢社の下の山道: これが古い千国街道跡と思われる

石垣で支えられた高台の上にある伊勢社

伊勢社の手前(南東側)の社: 銘はないが、水神社かもしれない

拡幅された現在の千国街道

湖岸に降りていく小径(塩の道)

山腹丘陵から湖畔を見おろす

高台にある古民家: 赤い屋根は対岸から見るさいのランドマークだ

湖畔の神諏訪社の鳥居前(この辺りが西海ノ口地籍か))


▲集落南端の別荘あるいは店舗用家屋だろうか: 古民家様式で新築したのか、それとも移築したのか

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