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長野県木曽郡大桑村
 
  神社にまつわる伝説では、昔、京都の八坂社から持ち出されたご神体を山林に祀ったことが起源だそうです。
  現在、須佐男社は写真の中央部の森のなかにありますが、17世紀まではこの奥の尾根峰の上にあって、300年以上前にそこから遷座されたのだとか。
  写真:須佐男社がある山林を麓から眺める。

 
初期には尾根山頂にあった


境内の様子: 左側は拝殿で奥は土蔵、右端は手水舎。境内神域は静謐な山林のなかにある。

  妻籠宿、三留野宿と同じように、野尻宿の街並みの背後(南側)の高台にスサノオ(牛頭天王)を祀る神社があって、町を見守る形になっています。
  旧小木曽庄には宿場街の建設にさいして共通の構想があったのでしょうか。室町後期から戦国時代にかけて木曾を統治した木曾氏の影響なのでしょうか。
  社号が須佐男神社となったのは、明治以降だと見られます。神仏分離が制度化されるときに神仏習合の伝統から引き離されて神社だけここに残され、須佐男神社という社号となったのでしょう。野尻宿ではこれに関する資料は見つかりませんが、妻籠宿では牛頭天王社が光徳寺から分離されて和知埜神社と改称されました。
  野尻に伝わる説話では、京都の感神院(祇園社)から持ち逃げされたご神体がここに祀られることになったということですが、おそらく京都が戦乱で荒廃したさいに持ち出されたご神体が野尻にもたらされたのではないかと考えられます。

■八坂社(牛頭天王)の系譜を継ぐ神社■

■17世紀までは山頂にあった■

  須佐男神社の境内拝殿の前には「遷座三百年奉祝」の石碑が立っています。伝説の通り、おそらく1660年頃までは、この神社は現在地の背後に迫る尾根の上の峰にあったものと考えられます。
  その時代を考えると、江戸時代初期で野尻宿が宿駅機能を備えた街としてようやくでき上った頃で、荒田地区の開拓と街並みの西への拡張が始まる頃合いなので、そういう動きと須佐男神社の遷座は関連しているのかもしれません。


医師の門柱の背後には一対の石灯籠


大鳥居の背後の杉並とサワラの並木

  この神社は、社号の通り、スサノオを祀っています。ほかの地方では牛頭天王社あるいは八坂社(弥栄社)と呼ばれることもあります。江戸時代までは、京都にある現在の八坂社は感神院または祇園社と呼ばれていて、神道と仏教が融合していました。つまり神仏習合の伝統が受け継がれていたのです。
  野尻の須佐男社にまつわる伝説では、昔、京洛の八坂社を追放されることになったチョウサイ坊という僧――神仏習合の時代だったので、神社と寺院は融合していたので、神社に勤める仏僧もいた――は、ひそかにご神体のひとつを持ち出し、木曾までやって来ました。チョウサイ坊が野尻の上在まで来て空腹と疲労で困憊していてとき、その地の有力者、西尾万納に助けられました。
  ご神体を盗み出したことを悔やんでいたチョウサイ坊は、万納に深く感謝して、万納が保有していた山林に堂舎を建立しご神体をて祀ることを願い出ました。万納は大喜びして社殿を建てて、おそらく正式に勧請してスサノオ神を篤く祀ったそうです。その当時の神社は、現在地よりも上の尾根峰にあったそうです。
  京都の八坂社といえば格式が高い最有力の神社ですから、通常であれば、追い出そうとする僧にご神体を持ち去れるようなヘマはしないはずです。したがって、伝説が史実だとすると、京都が戦乱に見舞われ、八坂社の組織や権威が衰弱していたときの事件でしょうか。鎌倉末か室町後期か、その辺りの時代かもしれません。野尻のこの社が須佐男神社という社号になったのは明治以降のことで、それ以前は神仏習合で牛頭天王社と呼ばれていたと見られます。


約300年前におこなわれた遷座の記念碑


灰での向かいの手水舎

  この街の古老によると、この神社の境内にはかつては寺の堂宇らしい建物があったそうです。幕末まで牛頭天王社を管理していた別当寺の堂宇があったようです。明治維新で寺格は廃されたようです。それが妙覚寺に属する禅庵のような建物なのか、別のものなのかは、史料が見つからないので不明です。
  野尻の伝説にある――城山尾根の城館跡に設けられたという――龍泉庵が、須佐男社に付随した禅庵かもしれません。


本殿から拝殿を振り返ると


境内からこの参道を街に帰っていくことになる


国道19号を山側に越えると参道に続く石畳の小径に出る▲


石畳の小径で宿場街の方を振り返ってみると▲


石門が立っているのは、参道の入り口▲


大鳥居の脇から杉と背の高い杉とサワラの並木が始まる▲


左(北)から社務所、舞殿、拝殿が横一列に並ぶ堂舎▲


拝殿の正面はこんな感じ▲

拝殿間の様子はこんな風▲

拝殿の中央背後には本殿いに向かう渡殿。階段状が本殿。▲

本殿は一見流造りの精巧なものだ▲
  ■駐在所前の小休み石と祠
  野尻宿の警察官駐在所の前、旧街道のカーヴの脇に大きな石が横たわっています。小休み石と呼ばれています。須佐男神社の例祭で神輿を神社まで運び上げるときに、この大石のところで、いったん神輿を降ろして小休憩をし大石と祠の前で獅子舞を奉納するのが恒例となっているそうです。
  この大石の前で神輿行列が小休みするのは、スサノオ神が京都の八坂神社から野尻にやって来て祀られるさいの出来事によるものです。
  いよいよスサノオ神のご神体を祀るために、万納さんが譲り受けたご神体を担いで山林の社殿に運ぼうとしたときに、現在大石があるこの場所の前まで来たところで忘れ物を思い出し、この大石にご神体を置いて、上在の屋敷まで忘れ物を取りに戻り、そしてこの大石のところでご神体を再び担ぎ、それから社殿まで一切を運んだそうです。
  それ以来、大石の上にスサノオの小さな祠を置いて祀ることにしたそうです(野尻の民話より)。

  ところで、日本の古代神話でも最も有力な神様を祀る場面ですから、万納さんがたったひとりで運び奉納、祀ったわけではないと私は思います。しかも、万納さんは富裕なのですから。使用人や村人も含めて、いやもしかしたら村人総出で行列をつくって神輿=祠にご神体を収めて運んだのではないでしょうか。そうすると、万納さんが自宅からここに戻ってくるまで、一行は待っていたはずです。だから、この大石を「小休み石」と呼ぶのでしょう。

町通りのカーヴの突端脇に大きな石と祠がある▲


この石は「小休み石」と呼ばれている▲


大石の上に祀られているのはスサノオの祠▲

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