社殿跡か、砦跡か 集落背後の尾根峰


十二兼の木曾川河畔から東を向いて撮影した写真。国道19号と並走・連絡する県道の土手は補修工事用の
シートで覆われている。国道の向こう側に十二兼の集落の家並みが見える。中山道は家並みの東脇を通って
いて、その背後に袖山の裾の尾根が迫っている。尾根峰上には熊野権現社(中社)の遺構があり、修験者
たちは、そこから袖山の山頂を目指し、さらに尾根伝いに野尻城山の山頂まで回行修行したであろう。








出典:宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第7巻

  上の絵図は、宮坂武男『縄張図・断面図・鳥観図で見る 信濃の山城と館』第7巻からの引用です。
  十二兼の集落の東側には袖山の山裾のなだらかな尾根が張り出しています。その尾根の北側の谷間を八人石沢が東から西へ、木曾川に向かって流れ下っています。
  この尾根峰には戦国時代の砦跡(十二兼砦跡)があると言い伝えられています。しかし私は、袖山の山裾から山腹、山頂にかけて、さらに野尻城山にも、熊野御信仰にもとづく密教修験場があったと見ています。一帯には山岳修行のための堂舎群や住居群が妻財していたのではないでしょうか。 袖山と城山の山頂には熊野権現の奥社または奥の院があったと考えられます。
  この修験場は古代に開かれたと見ています。そして、山裾の尾根峰には熊野権現社の中社があって、この山頂部は室町時代後期から戦国時代には砦として使われた時期もあるようです。
  そういう時代、武将領主たちが相争う時代になると、この山岳修験場は衰微荒廃し、江戸時代の初期には中山道建設にともなって、熊野権現社の神官団(禰宜たち)は、現在の十二兼集落の中山道沿いに移転させられ、宿坊や農業の傍ら街道の輸送業務・案内業務・休泊サーヴィスの提供を義務づけられるようになったのではないでしょうか。