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長野県塩尻市柿沢
 
  今回は、長坂で高速道路を跨いでから東山の尾根中腹の旧中山道をたどって、東山集落まで歩きます。
  旧街道は山林を往く小径となり、往時の街道旅を彷彿とさせる史跡や遺構を探索する旅となります。晩秋の里山の旅を楽しみます。
  写真:新茶屋立場跡近くの小径。少し先に山林の切れ間があって、晩秋の陽光が射し込んでいる。

 
穏やかな峠越え道

  長井坂をのぼって高速道路と国道20号を東に越えると、旧中山道はいよいよ東山中腹の山林地帯に入ります。上り坂はところどころ急勾配になりますが、歩きにくいというほどではありません。人里離れた山中というわけでもなく、国道に近づいたり離れたりしながら、ところどころに人家や文化施設を見つけることもある旅となります。


▲樹林の枝が基地に覆いかぶさり、あたかもトンネルを往くような風景になった

  とはいえ、家並みから50メートルも離れると、森閑とした物寂しい山中の森林の雰囲気が漂います。標高が860メートルから960メートルに達する高原の旅です。その意味では、ちょっぴり冒険気分を味わいながら、美しい高原の晩秋風景を安全に楽しむ旅といえるでしょう。木々の葉の大半は落ちて路面に降り積もっていて、歩くと足裏にフカフカとした感触が伝わってきます。
  歩くのが苦にならない人にはおススメの峠越えルートです。

■晩秋の里山の街道■

  諏訪湖の北西方向にそびえる東山(標高1430メートル)は、幅広の山頂部から南に――岡谷側と塩尻側に――2本の尾根を延ばしています。一里塚跡までの道は、塩尻側(西側)の尾根の先端をめざすコースで、尾根の南西側の台地丘陵を往くのぼり道です。
  すでに山中に入った旧中山道は標高860メートルを越えた高さに達しています。高原ではすっかり晩秋の装いで、山林の紅葉・紅葉は「今が盛り」を過ぎようとしていて、樹々の根本や路上には落葉が厚く降り積もっています。
  落葉樹の枝についている葉はまばらになって、ところどころ木漏れ日が射し込んで、山林がすこしずつ明るくなってきています。晩秋の山道歩きの楽しみは、ときどき陽だまりに出会い、そこでゆっくり錦繍の樹林を眺めることです。

■新茶屋立場跡の近辺■


アカマツの葉は緑、カラマツの葉はオレンジ色に▲


牛馬守護神の石塔

  東山の塩尻側(西側)の尾根の先端を旧街道が回り込む辺りに、新茶屋立場跡があります。南向き斜面の下に集落と国道を見おろすことができます。山林に取り囲まれた跡地だけで、遺構は何もありません。
  立場とは道中の休憩施設のことです。もともとは、「立ったままで休憩する、一服する場所」というような意味があって、そこから茶屋などの休泊施設を意味するようになったのだとか。江戸時代の後期になると、新田開発や商工業の発達とともに人びとの往来や物流が盛んになって、街道での輸送に携わる馬方や牛方が急増したことから、とくに山中の街道や脇往還に茶屋などの簡易な休憩所があらたに設けられるようになったことによるものです。
  新茶屋立場(立場茶屋)跡を過ぎると、山側のカラマツ林に「牛馬守護神」の碑が立っています。街道輸送や農耕に携わる牛馬を守る神をそれ自体として祀るのは、きわめて珍しいことです。信州では、そういう守護神や牛馬の遺骸を埋葬し霊を弔う場合には、馬頭観音を祀るのが通例なのですから。勤皇思想とともに神道思想が普及し始める幕末または明治以降に建立されたのかもしれません。

■国道との合流点■


東山の尾根中腹で旧街道は公道と出会う


街道は住宅の敷地を分断するように通っている

  尾根を回り込むとその先で傾斜が緩やかになった南向き斜面――谷間の扇状地――に出ます。そういう地形からこの辺りで耕作地や集落を開くことが比較的に容易だったことから、高ボッチ山系に向かう林道の起点として、東山集落が形成されました。
  そういう事情で明治以降、東山集落の辺りでは道路建設が繰り返されたため、旧中山道の道筋は変更されたのかもしれません。
  私の想像ですが、旧街道は現在の国道20号の南側に当たる場所を回り込んでいたのではないでしょうか。国道建設にともなって、中山道は国道で断ち切られ、それに代わる遊歩道が民家の敷地を分断するような形でとくられ、国道の北脇を並行する状態になってしまったのではないでしょうか。


立札の下にある犬飼の清水跡の標石

  東山集落は、2つの大きな尾根に挟まれた谷間に広がる扇状地に位置しています。旧中山道は、扇状地の段丘の下を通っていたようです。だとすると、段差によって段丘の下に伏流水が湧き出てくることになります。
  その湧き水が泉となり、沢の起点となっていたのでしょう。それが犬飼の清水と呼ばれた場所です。清水跡の立札には「お公家様の犬が元気をとりもどした清水」と書かれています。今は駐車場を含む宅地として造成され、砂利が敷かれたので、清水があった頃の地形は失われています。
  泉から湧き出た水は犬飼沢となって流れ下り、田川浦湖とみどり湖という巨大な溜め池に水を供給しています。

■集落から東明神社の杜へ■


旧中山道は国道から分かれて東に向かう


古民家ではないが、本棟造りの家屋が街道脇にある

  旧街道は、犬飼の清水の東で国道と別れて集落の家並みの間を東に向かうことになります。集落を歩いているうちに、この集落は明治以降に開拓村として発足したのではないかという気がしてきました。あるいは、古い高原の村が近代の農耕地開拓で復興したのではないかと。
  そう思う理由は、家並みが日本の山間の村によくある、集住型の集落――住居が密集する形の村落――ではなく、数戸ずつ分散しているからです。こういう形の集落は、近代に開拓された高原の村によくあるのです。
  そして、とくに昭和期になって開墾が進んで人口と住居が増えて、ひとまとまりの――公民館や分館を備えた――行政区となったのではないでしょうか。
  そんな思いにとらわれながら旧街道を東に向かって歩いていくと、右手(南側)に背が高い針葉樹林帯が見えてきました。樹木のほとんどはサワラで、東明神社の鎮守の杜となっているようです。この神社には別の機会に探訪する予定です。
  このサワラの樹林帯の西側には、丘の下から旧街道に向けてのぼってくる農道があります。その道と旧街道との合流点の手前、樹林帯の北西端に石仏群を見つけました。3体あって、刻まれた文字から、向かって左は半増坊大権現、真ん中は馬頭観世音、右は判読できません。


立札の下にある犬飼の清水跡の標石


画面右端は国道20号をくぐって横断する地下歩道の出入り口▲

紅葉の盛りで、街道には落ち葉が降り積もっている▲

新茶屋立場付近のカラマツ林に立つ牛馬守護神の石塔▲

画面左、街道の南側が新茶屋立場跡で、今は民家がある▲

西側を眺めると、鉢盛山(標高2447m)の峰が見える▲

晩秋、錦繍の樹林に陽が射し込む▲

住宅の前の庭先を突っ切るように往く旧街道▲
中山道は、今の国道20号の反対側を通っていたとみられる。が、
この塩嶺峠越えの道路建設のさいの事情で、この住宅の敷地
を分断するように道筋が変更されたのではないだろうか。住宅の
玄関前を往くのは、遊歩道として整備された中山道らしい。


犬飼の清水跡に向かって降りていく遊歩道▲

振り返ってみると、右の細い道が「今の中山道」(遊歩道)で左の道が明治時代までの旧中山道跡らしい。ここが、遊歩道と旧中山道との合流点だ。

立札と看板の辺りが犬飼の清水跡。扇状地なので泉があったか。▲

歩道橋から南西の風景:彼方の峰は三州街道小野宿の背後の霧訪山か▲


東山集落のなかを往く美優中山道(横断歩道上で撮影)▲

晩秋の陽を浴びて家並みの間を歩く

旧街道沿いに間を置いて2、3戸の住居が並ぶ▲

丘陵の田園地帯を往く旧街道▲

先方に針葉樹林が見えてきた。東明神社の鎮守の杜だ。▲

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