東山集落の東明神社は、明治時代に開拓が始まった東山集落にあった2つの神社を合祀したものだそうです。 村社が2つあったというのは不思議ですが、ここは塩尻と岡谷=下諏訪の境界・中間地帯ですから、塩尻側からと岡谷=下諏訪側との両方から開拓が進められた結果、2つの開拓村が融合したからではないでしょうか。神社の歴史には、この集落の開拓の歴史が包含されているようです。


◆開拓村の合祀でできた神社◆



▲拝殿の下から境内入り口の鳥居を眺める。杉とサワラ(ヒノキ?)に取り囲まれた参道



▲平成期に建てられた大鳥居。これが境内入り口。


▲東山地区の公民館の東脇を往く参道


▲杉・サワラ並木の手前にある参道脇の庭園


▲ここから参道両側のの並木が始まる


▲樹齢100年ほどの杉とサワラ(ヒノキ)の樹高は高い


▲拝殿の背後はサワラ(ヒノキ)の鬱蒼とした樹林


▲拝殿の内部の様子


▲大屋根の飾瓦は梶葉の紋。つまり諏訪社系。


▲山神社と秋葉社を合わせた石塔

  鳥居などに刻まれた文字からすると、東明神社は1923年の11月~12月に2つの神社が合祀されたようです。それが開墾50年とされているので、1873年頃に現在の東山集落の開拓という開墾と村落建設が始まったと見られます。


大正期に建てられた大鳥居

  集落に2か所あった神社とは、東粗神社と東山神社だそうです。古い方が東粗神社で東山一里塚の北にある尾根峰の上に祀られていたとか。祭神は神武天皇で、これがこの集落開拓を始めた頃の氏神だったようです。氏神ということは、開拓を担った家門の祖霊を祀る神社でもあったということです。
  こちらは諏方平に近いので、岡谷方面からの開拓者だったことから、諏訪大社の系列だったかもしれません。屋根の大棟飾瓦には梶派の紋が描かれています。明治時代は国家神道思想の高揚が政治的に図られた時代なので、表向きに主祭神を神武天皇としたものの、氏神社という性格上、諏訪大神をも祭神としていたと考えられます。

  一方、新しい神社とは東山神社で、天照大神を祀ったもので、東明神社から西に30~40メートルほどの位置にあったのではないでしょうか。
  地元の住民によると、東粗神社は神武様、東山神社は新宮と呼ばれていたそうです。
  私の勝手な想像にすぎませんが、塩尻峠東山地区の開墾開拓は、谷間の扇状地で傾斜がなだらかなこの一帯で、岡谷=新諏訪側と塩尻側という2つの方向で進んできて、東明神社辺りで出会ったのではないでしょうか。広大な原野だったので、2つの開拓村は争うこともなく融合して、やがてひとつの村落・行政区となったのではないでしょうか。
  ところが、村の融合を深めるため、明治時代の後期に――神社運営のために政府の財政支援をしやすくするため――神社合祀令が出されたこともあって、大正時代の後期に現在地に合祀されたのではないかと見られます。

  江戸時代の前期、塩尻側の住民と岡谷側の住民は塩尻峠の山林の入会権(草木の採取など山林の利用権)をめぐって争い、松本藩と諏訪藩との境界をめぐる問題なので、江戸幕府の評定所で訴訟となったことがあったそうです。山林の入会権をめぐる紛争は「山論」と呼ばれました。このことは、東山へのアプローチが峠の両側からあったことを意味していて、おそらく明治時代からの開拓も同じ趨勢にあったと考えられます。
  評定所の裁定では、犬飼の清水を境界として、岡谷=下諏訪の人びとは東側を、西側を塩尻の人びとが利用できるものとしたそうです。農耕地の開拓では、東山尾根裾の丘陵は広大で争いにはならなかったようです。やはり、犬飼の清水跡辺りから東明神社の辺りまでが、東西2つの開拓村が出会い融合する場所となったのでしょう。
  鳥居から参道が北に延び社殿にいたります。参道の両側には杉とサワラ(あるいはヒノキ)の並木が続いていて、地面は薄暗くなっています。参道の西側には東山公民館があります。拝殿の東脇には山神社と秋葉社を祀った石塔があるので、合祀連に倣って集落の神社をこkに合祀したのでしょう。
  国道脇の大鳥居の手前には道祖神が祀られています。いつ祀られたのかはわかりません。そして、建立のときからここにあったのか、神社の郷士にさいして鳥居前に移設されたのかもわかりません。道祖神は、一般に村人が頻繁に通る道脇や村人が集まる祈りの場の近くに建立される場合が多いそうです。


大鳥居の手前の道祖神

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