本文へスキップ
長野県塩尻市柿沢
 
  今回は旧中山道塩尻宿の東端、永福寺の近くから出発して塩尻峠に向けて歩きます。500メートルほど歩くと、和風の趣きを湛えた美しい集落に出会います。しだいに勾配がきつくなる上り坂の小径で、ゆるやかな曲がり具合が旅情を誘います。
  ここは旧柿沢村で、幕末からの古民家群と端正な庭園が街道脇におよそ600メートル以上も続いています。
  写真:柿沢集落をのぼっていく旧中山道の風景。奥行き感が素晴らしい。

 
塩尻峠のへ「のぼり口」

  これから塩尻峠を越えて諏訪湖畔の岡谷をめざす旅を始めます。第1日目は、塩尻宿の東端にある永福寺観音堂を出発して柿沢集落を歩きます。ここから長坂と呼ばれる上り坂が始まります。 塩尻宿から見て、諏訪湖畔の岡谷は東南東の方向に位置しています。旧中山道は、徒歩での旅を想定した街道ですから、峻険な尾根や谷を回り込む場所以外は小さな屈曲を繰り返し、できるだけ最短距離を往くような道筋になっています。
  塩尻峠の西側を占める柿沢村は、1590年から1625年までは松本藩領でしたが、その年から幕府天領(直轄領)となりました。そして、1743年から松本藩が御預所として勘定奉行の支配下で統治することになりました。おそらく年貢負担率は、ほかの松本藩領と比べて軽かったものと見られます。その分、豊かな村だったでしょう。


▲坂道をのぼって柿沢集落の中ほどまで進み、来し方を振り返ると、ずい分のぼってきたと実感する

  柿沢集落は旧中山道沿いに700メートルほど続く集落です。緩やかに曲がる坂道の脇には、和風の庭園と建物が並ぶ、美しい景観がきわだっています。中山道は、本棟造りの古民家や土蔵、和風の建物を松や楓、モクレン、ツツジ、サザンカなどの植物が囲んでいる庭園によって縁取りされています。
  私は11月の前半、晩秋の紅葉を迎えた時季にこの集落を歩きました。700メートルほどの道のりを進む間に、標高差にして45メートルほどのぼりました。塩尻峠の始まりなので、勾配はまだ緩やかといえます。美しい里山風景のなかだったので疲れは感じませんでした。


▲庭園を構成する樹木は主に常緑樹だが、ところどころに紅葉の錦繍が混じる

  永福寺観音堂の前から歩き始めて南東に約200メートル進むと四つ辻となり、ここから東が柿沢集落です。旧街道は、見た目にはっきりとわかるのぼり勾配となります。
  集落の上手(西端)の入り口となる地点には、鉄製の鳥居の形をしたアーチが設けられて道を跨いでいます。これは、旧街道が柿沢集落の鎮守、八幡神社の参道の一部をなしているからです。参道は双体道祖神の前で北に曲がって中山道と別れます。
  旧街道の道幅は3.5メートルくらいで、かろううじて小型車または普通車がすれ違いできるほど。だいたいの家々は、道から数メートル奥まった場所に建てられています。家屋と街道との間には和風の庭園(前庭)がつくられています。 明治以降になって街道は拡幅されたものと見られますが、江戸時代に柿沢集落は塩尻宿の加宿(宿場街を補完する集落)として、2間以上の道幅があって、住居と街道との間に前庭を設けて、街道景観を整備していたのかもしれません。

■街道風景の今昔を想う■


集落の西の入り口に立つ鉄製の鳥居型アーチ

  写真が示すように、今の旧街道は舗装されて起伏がない滑らかな路面となっています。しかし、このように平滑な路面となったのは、車両の通行を考えた道路整備が図られるようになった明治の文明開化以降のことで、江戸時代には、街道はほぼ自然の地形にしたがった形になっていました。
  つまり、江戸時代には路面は土でラクダの背中のようにデコボコで起伏に富んだ状態だったはずです。沿道の各戸の敷地はだいたい平坦にならされていたでしょうから、街道と敷地の境界には昔から低い石垣が施されて地盤を支えていたものと考えられます。
  街道から奥まったところに家屋があって街道とのあいだに広い庭がある屋敷は、もともとは家の南側に畑があって、それがやがて庭園に仕立てられたのではないでしょうか。

  端正に仕立てられた緑地帯(和風の前庭)と石垣で家並みと街道が隔てられている景観・・・そのなかに高札場跡があって、復元された小ぶりの高札場が立っています。敷地を縁取る生垣の列にすっかり溶け込んでいます。


ところどころで街道は緩やかに曲がる▲


高札場は前庭の生垣が並ぶ風景に溶け込んでいる

■集落内の道は自然発生的な形■

  柿沢集落内の道(旧村道)は、旧中山道も含めて自然発生的な形です。曲りが多く、街道を横切る小径も筋違いだったり、斜めだったり、湾曲したり、南北片側の交差だったりで、規則性や計画性がありません。これは、街道が建設される前から村落ができ上っていて、集落内は既存の道路の形にしたがうしかなかったという事情を物語っています。それだけ、古くから開けた豊かな農村だったということでしょう。
  そんな自然発生的な村道と街道とが出会う辻に双体道祖神があります。集落の中ほどのこの辻は、八幡神社への参道が街道から北に分岐するところです。参道は左右に湾曲しながら北東に向かい、200メートルほど進んだ地点で八幡神社の大鳥居前にいたり、そのまま丸山丘の裾を往き、丘の東端に沿って東から南に回り込みます。
  参道と街道とが出会う辻は、集落の南側にある首塚・胴塚へと向かう小径と筋違いになっています。八幡神社と首塚・胴塚については別のページに探訪記を載せます。


このような古民家が5棟ほどある


集落中央の辻にある双体道祖神と旧街道絵地図

  すでに書いたように、柿沢集落のなかを往く街道は、家並み700メートルほどの間に47メートルものぼる傾斜です。鉄道風に表記するなら64/1000(64パーミル)という急勾配で、列車が登れないような坂道です。
  この道を歩き続けるのは楽ではありませんが、視界のなかで緩やかに曲がりながら先に向かって上昇していく沿道景観は、立体的で奥行き感があります。しかも、美しい前庭をともなう家並みの敷地が階段状に連なっているのです。あのカーブの先の風景はどうなっているのか、楽しみな街道歩きになります。
  上り下りの道なりや家並み、庭園の並びは、信濃の山間や谷間を抜けて往く旧中山道の風景の素晴らしさのなかでも、最も大きな要因のひとつです。柿沢から今井までの塩尻峠を往く旅は、中山道歩きのなかでもおススメしたいコースです。

■街道脇の馬頭観音(石仏群)■


杉木立ちの根元に古びた石仏が4体並んでいる


高い石垣で大きな段差を支えている

  みごとな景観を追いかけているうちに集落の東端に近いづいてきました。すでに40メートルは標高を稼いでいます。
  家並みの間に草地や畑や樹林が割り込んでくるようになりました。そんな一帯の街道の左(北)脇の小さな杉林の根元に石仏群を発見しました。杉木立が陽射しを遮り根元は深い陰影となっています。近づいて観察すると、馬頭観音像を浮き彫りにした石仏がひとつ、馬頭観音の文字が刻まれた自然石の塔が2つ、残りのひとつはひときわ小さいうえに劣化していて、文字や像は判別できません。
  石仏群の傍らにやや大きめの石が集まっています。おそらく小堂の石垣か石積み基盤が崩れた跡のようです。ここにはかつて人びとの祈りの場があったのでしょうか。杉木立は、お堂を取り囲む叢林の名残りなのかもしれません。
  集落の東の端に街道を挟んで2、3軒の住戸があります。両側の敷地ともに高い石垣で大きな段差を支えています。ここは、いわば谷間になっています。江戸時代には小丘があったのを明治以降に切通して、街道を滑らかな坂道にして、両側に屋敷地を造成したものと見られます。


本棟造りの古民家がいくつも保存されている家並みと前庭▲

空が広く、穏やかでゆったりとした風景▲

石垣に支えられた板塀や低木の垣根が前庭を縁取っている▲

道路の勾配と曲り、そして蔵や古民家が織りなす街道景観▲

高札場付近の平坦で穏やかな里山風景▲

ひときわ広壮な大棟造りの古民家となまこ壁の蔵▲

土塀や垣根が背景に向かって階段状に摘み上がっていく▲

旧街道に迫る白壁土蔵が、広い空の片隅を切り取っている▲

家並みが途切れるところは畑作地。樹林を杉並木が縁取ることも。▲

集落の東端が近づいてきた。この杉叢林に石仏群がある。▲


杉木立の根元に馬頭観音像が並んでいる▲

石仏を過ぎたところで来し方を振り返ってみる▲

ここは明治以降に小丘を切通して段差を石垣で補強したらしい▲

家並みは途切れ集落の彼方に乗鞍高原に続く山並みが見える▲

▲集落の東端から東方を眺める。塩尻峠に向かう旧街道遺構。東山の尾根筋が何本も連なっている。

|  前の記事に戻る  ||  次の記事に進む  |