塩尻峠頂部の200メートルほど手前に茶屋本陣跡――御小休本陣おこやすみほんじんと呼ばれた――があります。本棟造りの主屋の古民家が今でも残っています。江戸末期の古民家の基本構造を保持したまま昭和期に修築されたようです。その頃には住人(上条家)が生活していたのでしょう。
  主屋は、街道に面した側の間口が8間半(16メートル)、奥行きが6間半(13メートル)という広壮な造りで、峠越えの賓客――大名、公家、公用の上級役人――に茶菓や食事と休憩場所を提供しただけでなく、危急の場合に宿泊させる部屋もあったのではないでしょうか。本陣と呼ばれるだけの規模と風格を備えていた建物です。
  ほとんど記録は残っていないようですが、外観を頼りに往時を偲んでみることにします。


◆本棟造りの広壮な茶屋本陣◆



▲屋根の妻側に雀脅しを載せた本格的な本棟造りで、屋根を瓦風金属板で葺き直してある。小径の先の尾根が峠。

▲御膳水の井戸の跡。木製の枠と覆い屋を施してある。修繕から30年ほど経過しているか、

  この御小休所は、柿沢村の名主の弟、吉次郎(上条家)が茶屋を営んだそうです。大名などの利用がない普段は、土間で一般の旅人相手に茶屋を営んだようです。主屋は1796年(寛政年間)に建築され、修築後も上段の間、次の間、玄関、門は当時の様式を保っています。
  塩尻峠西側は松本藩が幕府からの御預所として統治したのですが、本来は幕府直轄領(天領)だったので、勘定奉行が役料を助成して茶屋本陣を経営できるようにしたのかもしれません。


▲深い山林を抜けると街道は東向きに曲がり、畑作地に出る


▲開けた平坦地の小径の先に古びた建物が見える


▲茶屋本陣の主屋は手をかけて補修または修築が施されている


▲乳金物付きの扉がある薬医門。形状から格式の高さがわかる。


▲石垣で囲まれた池も手間と費用をかけてつくられたもの


▲かつては丹精を込めて剪定されていたのがわかるモミジやツツジ


▲庭石も手間と金を注いであつらえたことがわかる


▲神明式の鳥居にもかかわらず、奥には稲荷社の社殿がある。


▲丁寧な造りの稲荷社。かなりの金額を投じてつくられたようだ。

  山中の峠道で宿場でもないのに「本陣」と呼ばれる建物に出会うのははじめてです。宿駅で本陣と呼ばれる施設は、参覲旅の大名や勅使の公家、幕府公用を担う高位の役人の飲食や休泊サーヴィスを提供することを仕事としています。 つまり、それだけの格式を備えた建物で、質の高いサーヴィスを提供するだけの人員を雇っていなければならないのです。
  そんなものが峠越えの山中にあること自体、きわめて異例なことです。存在そのものが大きな謎です。


背後の山を借景にしたみごとな和風庭園

  外観から判断すると、茶屋本陣の主屋は平屋造りで建坪は65坪前後はある広壮な建物です。ものすごく費用がかかっています。主屋に付随して、南側の前庭と北側の裏庭もじつに手をかけた和風庭園をつくりました。しかも、とくに塩尻側の茶屋は、当時、集落など経済拠点が何もない山中につくられました。どうやって建設費用や経営費用をまかなったのでしょうか。
  参覲交代で江戸との間を旅する大名は数多くありました。だとすると、塩尻宿から下ノ諏訪までの長い道のり(約15キロメートル)のどこかに彼らに飲食や休憩サーヴィスを提供する場を設けるのは、当然とも言えます。
  ところが、塩尻峠には茶屋本陣は、ここと峠道を降り切った今井集落の番所近くもあって、2つもあるのです。おそらく、松本藩領と諏訪藩領がともに張り合って茶屋本陣を等しく設けるようになったと見られます。しかし、広壮な陣屋を構えてもてなす費用は誰が負担したのでしょうか。
  宿場街と同じ法令が妥当するなら、茶屋の基本サーヴィスは、茶屋本陣を運営する側が税(年貢)として無償で提供することになったはずです。一般の旅人に有料で茶菓飲食を提供する収益でまかなうことはできたのでしょうか。
  この本陣の当主は、ここから遠い平坦地に土地を保有する大地主とか山林経営などで稼ぐことができる富豪だったのでしょうか。


廃墟になっている建物

  岡谷側の今井集落に、茶屋本陣が設けられたのは、その建設と経営を担いうる豪農で大地主の今井家があったので、根拠はありそうです。今井家は今井の農耕地と集の開拓を指導してきた有力家門でした。
  そもそも、中仙道の当初は、木曽路の贄川宿から牛首峠を越えて小野宿にいたり、そこから小野峠(三沢峠)を越えて諏訪湖畔の岡谷に降りて下ノ諏訪をめざす経路でした。ところが1620~40年前後に幕閣で闇の権力闘争が起きて、その結果、大久保長安の死後に「その途方もない罪科」が問われることになり、紛糾のなかで中山道の経路も変更されて、贄川からこの山宿、洗馬宿を経て塩尻宿に回り、塩尻峠を越えて下ノ諏訪宿にいたるコースになったのです。
  街道経路の変更、つまり新たな経路の建設を強く幕閣に提案したのは、松本藩だったと伝えられています。
  こうして、中山道の塩尻宿・塩尻峠経由の道筋は、そもそもの発端から因縁つきで建設されたのです。その経緯も異例ですが、塩尻峠の山中に茶屋本陣という奇妙な休泊施設が設けられたのも、じつに奇妙だとしか思えません。

  ともあれ、江戸時代の中期頃にはここに茶屋本陣が置かれたのです。大名や公家をもてなすために、広壮な主屋をつくり、貴人たちがくつろぐことができるような部屋を設け、端正な庭園をつくり、飲み物や食事をつくりサーヴィスする使用人たちも20人ほどは雇わなければ、茶屋本陣を営むことができません。
  中山道を通って江戸への参覲旅をおこなう藩が仮に100ほどあったとしても、この茶屋本陣は毎日利用されるわけではないでしょう。数日に一度の賓客の利用のために、これほど立派な建物を用意し、使用人を雇用することはできたのでしょうか。だとしても、ここに人びとが常駐・居住して経営を成り立たせることは可能だったのでしょうか。岡谷の今井のように、豊かな集落があったのなら可能でしょう。しかし、ここは山中です。

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