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長野県上田市大手
 
 
上田城の今昔  

  上田城と真田家は数奇な運命をたどることになった。だから、人気があるのだろう。
  明治7年に上田城は明治政府の方針で破却となり、その建物は民間に売却されてしまった。南櫓と北櫓は近隣郊外の遊郭に移設された。やがて昭和期には、目黒雅叙園に転売されるところを市民の寄付で買い戻され、戦後、現在の地に移築されたという。櫓門はつい最近まで失われたままだった。西櫓だけが江戸期以来の位置に保たれていた。

▲城の出入口の櫓門 左右に南櫓と北櫓を連ねる

  櫓門が現在の位置に復元されたのは1994年。これでようやく、城址としての体裁が整えられた。
  南櫓と北櫓を連結する櫓門と桝形虎口が復元されたことによって、城郭としての重厚さが印象づけられることになった。

■城と真田家の数奇な運命■

  残念ながら、今残されている上田城址の遺構と復元建築物は、真田家が築いたときのものではない。
  関ヶ原の戦いで徳川家門が勝利し、真田昌幸と信繁(幸村)が与した豊臣家側が敗れたため、敗者側に対する徳川側の処分として上田城はとことん破壊され、堀はほとんど埋め立てられてしまった。

  ところが、徳川幕藩体制が構築される過程で、上田は信州上田藩の藩庁所在地となり、仙石家が小諸藩から上田藩に移封されることになった。
  藩主の仙石忠正は、藩庁として上田城を復元改修した。埋め立てられた堀を回復し、土塁の主要部と桝形虎口を石垣化し、2棟の隅櫓と7棟の二層櫓を築いて、近世江戸期にふさわしい「織豊系城郭」にした。
  本丸には藩庁となる建物群を建築したけれども、天主は設けなかった――というよりも幕府は許可しなかった。忠正没後、城の再建は中断された。
  仙石家は幕末に仕置不始末の理由で転封されてしまった。一方、上田城は明治以降に廃城となり、隅櫓は売却されたり破却されたりし、石垣や土塁は放置され続けた。

◆真田家のその後◆

  戦国時代の末期、真田家は豊臣側と徳川側に2つ――昌幸と信繁は豊臣側、信之は徳川側に――分かれた。有能な信之は家康から厚遇され、本多忠勝の息女を家康の養女として妻合わされた。そして、沼田と上田を領する武将となった。
  関ヶ原の戦のあと、信之の助命嘆願を徳川家は受け入れ、昌幸と信繁は九度山に流刑蟄居の処遇となった。けれども、信繁は大坂の役で豊臣派について討ち死にした。
  その後、信之は松代藩主(当時13万石)となって上田を離れた。

  徳川家康は、武田家の家臣だった真田武士団、すなわち地略と武略に富んだ勇猛果敢な朱備あかぞなえ(赤い鎧をまとった)騎兵隊を高く評価し、幕府を興してから自らの直参旗本のなかに朱備えの騎兵団を組織したという。
  江戸時代の講談で「真田ブランド」がつくられたのは、そういう背景もあってのことだろう。

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櫓門の左側の石垣にある巨大な「真田石」

内側から見上げた北櫓

崖下から見上げた南櫓

本丸土塁から見た西櫓
 
本丸跡は今、叢林となっている

本丸土塁北東(鬼門)にある隅欠土塁

上田街あるき情報

真田期の上田城縄張り

  • 戦国時代末、真田家が領主だった時代の上田城の縄張りの復元推定絵図です。

上田城跡公園の案内図

  • 江戸時代の真田上の縄張り絵図
  • 現在の上田城跡の構造(遺構)の絵図
  • これらを比較できます。
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