◆現在の上田城公園と江戸時代の縄張り◆

絵図の出典:上田城跡公園の案内図から

  江戸時代になって仙石家が、破却され堀が埋め立てられた城砦構造を復元し、土塁の一部を石垣化し、櫓を築いて、藩庁としての体裁を整えた。
  その縄張り図が上の2つの絵図だ。上の2つの絵図のうち、左側は1647年に上田藩士が描いた絵図で、右はそれをもとに図面に直したもの。真田期の上田城の縄張り絵図は、こらをもとにして推定したものと思われる。
  そして、現在の上田城の遺構を示すのが、下の絵図(上田城跡公園案内図)だ。

  ところで、上田城「三の丸」は、現在では上田城址公園からは切り離され、中心市街の官庁群や住宅に埋もれてしまっている。下の図では、二の丸・本丸の右下にある長方形の区画にある郭がそれにあたる。
  現在、三の丸があった区画には市役所や藩主居館跡(上田高校)などがある。
  上田城は、千曲川の分流としての淀が淵が扇状地を侵食してつくり出した河岸段丘崖の上に位置している。崖と河川が城郭の南側の要害(梯郭)となっている。この段丘の形は複雑で、二の丸と本丸と三の丸との間には淀が淵の支流がつくった谷が走っている。
  三の丸は、もともとは上田城の外郭だったようだが、東側からの攻撃に対する防御を主要な目的としている。このことから、築城後に徳川家と対立するようになってからより堅固に整備されたのではないかと思われる。