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長野県佐久市望月
 
 
本町の街並み景観の続き

  今回は、望月商工会の南側から南東に向かって歩いて、望月本町の残りの街区を観察します。とはいうものの、旧街道沿いの家並みは切れ間なく続いていて、本町と新町との境界はわかりません。


▲井出野屋旅館の南側から旧街道を眺める。ここから脇本陣遺構の辺りまでわずかに下り坂になっている。

▲町家古民家が残されている一角: 昭和期に伝統的な出梁造り町家の基本構造を残して修築したらしい。二階は袖壁。

  『望月町誌』第4巻に掲載されている大森久芳氏所蔵の「文化元年(1804年)望月宿宿割図」の町割り図では、街並みは連続的に描かれていて、本町と新町との境界が不明です。そこで、私の勝手な目安として、喜月堂辺りまでを本町と見なしてタウンウォッチングをすることにします。それよりも南側は、望月新町の街歩きで観察することにします。 ⇒望月宿の街並み・町割り絵図
  今回歩いて観察する地区では旧街道は、商工会館の南から佐久市役所望月支所前から下ってくる道路との交差点辺りから目に見えて上り坂が始まるとともに、緩やかに右に曲がっていきます。街通りの曲りは、鹿曲川の流路に沿っているのです。


▲旧街道の緩やかな曲がり角の南に位置する大和や呉服店跡

  旧望月町の住民にとっては、宿場町の上下方向を鹿曲川の流れの上下を基準として定めているようです。というのも、街並みの南東端と北西端とのあいだの標高差はおよそ10メートルほどもあるからでしょう。
  江戸時代の宿場通りの中央には用水路が設けられていましたが、新町から鹿曲川への注ぎ口までは水は滞留することなく勢いよく流れ下っていました。その用水の流れの勾配にしたがって、新町側を上、大伴神社の下辺りを下と見ていたのです。
  街のなかで住民に道や建物を訪ねると、南東方向を上、反対方向を下という言い方をして教えてくれます。

■望月本町の街並み景観■

  旧街道を南東に歩き始めてすぐに右手に重厚な町家造りの店舗跡が見えてきます。「ますや(舛屋)」という屋号で、看板サインやシャッターのディスプレイから昭和期には寝具・洋品店だったことがわかります。
  間口が狭く奥行きが深い町家造りの基本構造を残しながら、屋根を瓦葺きにし、商売のために一階を道側に広げたと見られます。店舗棟の脇には重厚な漆喰白壁土蔵が、妻面を道側に向けて建っています。


舛屋の間口は6間あったようだ

向かいの空き地の土蔵には「舛」の紋

  「ますや」の向かいの敷地は草地(空き地)になっています。奥には「舛」の紋の土蔵があるので、昭和期には舛屋一族の所有となっていたと見られます。
  舛屋から一軒おいたところに井出野屋旅館があります。そこの古老に聞いたところ、大正期に旅館業を始めたそうです。大正レトロな建築様式で、外観どおり三階建てです。映画『犬神家の一族』で旅館セットのモデルとなったそうです。映画セットは井出野屋とそっくりにつくられたのだとか。
  旧街道を挟んだ向かいには、かつて山城屋旅館だったという古民家があります。間口は8間近くあるので、江戸時代の敷地割りではありません。おそらくは、幕末頃から宿場の家数が減った時期に敷地を買い取って拡幅したのでしょう。
  また、二階の高さが、脇本陣や大和屋などの江戸期の古民家と比べると、目立って高いので、建物の建築年代も明治以降から昭和初期にかけてだと見られます。しかし、妻面の梁などを見ると、伝統的な造りを継承した造りです。
  井出野屋の少し南には佐久消防団第20分団の基地がありますが、ここは往時、神明宮の参道と境内がありました。その頃、その南の坂道――佐久市役所望月支所前の道路――はなく、神明宮の境内だったのです。境内の奥は、もともと河岸段丘崖だったのですが、道路建設にさいして土を盛って坂にしました。


神明宮社殿は電柱の奥にあった

  支所と旧街道とのあいだの地形は、往時と大きく変わってしまっています。ここに道路はなく、神明宮の境内や社叢があったものと見られます。その頃、現在、支所がある段丘の上には森が広がっていたのではないでしょうか。
  神明宮跡を過ぎた辺りから旧街道の上り坂の勾配が気になってきます。勾配は伊勢屋食堂の前に来ると、かなり目立ってきます。ここで旧街道は大きく右に曲がります。伊勢屋の南に小路がありますが、この小路は江戸時代からあった小径で、伊勢屋の背後で南に曲がりながら段丘崖を斜めにのぼっていったようです。
  曲がり角の頂点辺りには大和屋呉服店跡の町家遺構があって、旧街道歩きではランドマークとなります。


大和屋呉服店の向かいの家並み

  前回、大和屋という旅籠兼問屋跡の真山家住居遺構を探訪しましたが、大和屋呉服店は同じ屋号なので、同じく真山家なのでしょうか。そうだとすると、真山家門は望月宿ではずい分繁栄した一族だったのでしょう。呉服店跡の敷地には、店舗の南北両側に分厚そうな白壁土蔵が控えています。
  店舗と通りに面したガラス戸も費用と手間をかけた上質な造りのもので、明治から昭和期にかけての望月町の繁栄ぶりを伝える文化財として、現在の遺構を保存し続けてほしいものです。こんな立派で重厚な店舗建物は、木材もないこととて、もう建造できないでしょうから。
  大和屋呉服店の隣は、おそらくはかつて旅館を営んでいたかと思えるほどに、広壮な建物です。というのも、玄関の上が入母屋破風となっているからです。玄関脇に「薬用人参製造販売」という表示があるので、かつて薬種問屋または薬剤店だったのかもしれません。
  本町と新町との境界は、大和屋呉服店から喜月堂・ライト食堂とのあいだのどこかにあったのではないかと推定できます。江戸時代の町割り図でも、2つの町の境目は示してないようです。


バスターミナル跡前から本町方面を振り返る


「ますや」の造りは二階部分が高いので、明治以降の建築か▲

隣は井出野屋旅館: 大正期に旅館業を始めたという▲

井出野屋は2軒分町割りの敷地を併合したと推定できる▲

この町家は旅籠が並んでいた一角で、山城屋という旅籠だったか▲

妻面の構造: 二階の部分が大きいので明治から昭和初期の建築か▲

消防分断基地。往時、ここは神明宮への参道と境内だった。▲

この辺りから街道は目立つ坂道となり大きく曲がる▲

一階も二階も街道側の障子戸や窓は縦密格子で覆われている▲

旧街道の東脇の家並み: これも大正~昭和レトロな建物だ▲

大和屋呉服店跡: 大正後期から昭和期にかけて改築されたようだ▲

二階の突出部を支える桁の太さに注目!▲

喜月堂菓子店辺りまでが望月本町だったのではないだろうか▲

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