望月宿の街道と町割り

  上の絵図は、江戸時代の望月宿の宿場の形と町割りを描いたものです。『望月町誌』第4巻 536−537ページの町割り図をもとに編集加工して作成しました。
  往時、望月の街の北西端では尾根丘陵の末端が鹿曲川に迫っていて、中山道はこの尾根を回り込むように河岸段丘崖の縁を直角に2回曲がって宿場に入るようになっていました。そこは街道が鉤の手道(クランク形)になっていて、曲がり角は石垣造りの桝形になっていました。
  他方、宿場の南東端では道筋は直角に3回曲がって、鹿曲川河畔に下って東向きに長坂橋を渡って長坂・瓜生坂に向かうようになっていました。直角の鉤の手には、石垣そのものや石垣で支えた崖のような道路の勾配を利用して桝形が築かれていました。宿場の両端には木戸が設けられていました。
  宿場の表通り(街道)の中ほどに宿場用水路(堰)が設けられていて、上流部の鹿曲川の支流から取水して望月宿を流れ下り、街の北西端で鹿曲川に流し落すようになっていました。
  この宿場の姿は、1742年の「戌の満水」(大洪水土石流)で破壊された街を再建してから後のものです。完全に破壊された望月新町は、右岸(東岸)から左岸(西岸)に移転して望月本町の南東端に連結する形となり、中山道の道筋も移されました。

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